今月号は「大特集 岡崎京子は不滅である」が組まれていて、かなりのページ数である。もちろん岡崎京子氏は素晴らしい漫画家だ。しかし最近の文學界はサブカル色を強めている。なぜか映画関連の特集が頻繁に組まれる。中途半端な「ユリイカ」みたいだ。なぜ小説ではなくサブカル特集に力を入れるのだろう。どんな商売でもそうだが中途半端な副業は成功しない。文芸誌の主力商品はどこまで行っても小説である。
文學界は実質的に芥川賞を主宰する雑誌であり、世間では純文学誌の中で一番格が高いと思われている。最初に又吉直樹氏の『火花』が話題になったのも、お笑い芸人の小説があの文學界に一挙掲載されたからだった。普通は何度も新人賞に応募してやっと受賞し、その後ボツ原稿を繰り返して短編から始めなければ長編一挙掲載など夢のまた夢だ。人々の記憶に残るのは、デビュー作で新人賞と芥川賞を同時受賞したスター作家だが、現実には宝くじに当たるようなものだ。もらった時点で大人の対応ができなければ、逆に不幸になりかねないのも宝くじと同じ。編集者も含め、誰も書くという作家の仕事を助けてくれない、助けられない。書けなければ終わり。書いても話題にならなければいずれフェードアウトする。
また芥川賞は相変わらず私小説系の作品に授与されることが多いが、文學界が私小説系純文学作家を優遇しているようには見えない。連載はともかく単発作品では芸能人や文化人の小説を積極的に掲載する。文學界系作家に限らず、芥川賞というカンバンでもなけば純文学が売れないのだからわからないことはない。しかし本気で新たな金脈を探りたいなら、カンバンである私小説とは異なる純文学の姿をある程度明らかにしなければならない。それができなければ伝統という名のシガラミと安全パイを選ぶ心理から、私小説系作品に賞を授与し続けながら、時折売れる作品を文学の外の世界から持ってくる作業を繰り返すことになる。作品の質ではなく著者が背負っている付加価値が重要になるわけだ。
言い添えておくと芸能人や文化人の作品がつまらないと言っているわけではない。たいていの場合、純文学系私小説より記憶に残る。私小説の書き方は明らかにステレオタイプ化している。読んでいるうちは個性を感じられるが、読み終わると凡庸な有季定型俳句のように、さて、誰の作品だっけと印象がいっしょくたになってしまう。心理であれ事件であれドラマチックなことが起こらないので記憶に残らない。私小説であっても一九九〇年代頃まではドラマがあった。しかし今は失われている。古井由吉のエセイズム的書き方が高尚な純文学のそれだと思い込み、その書き方を弛緩させ定型化させてしまったような気配である。
芸能人や文化人の作品が記憶に残るのは、プロット=ストーリーがあるからである。彼らは素直に小説は物語だと考えている。しかし純文学作家はなんらかの形で小説=物語という型を崩そうとする。ただうまくいかない。当たり前だ。型を壊すのは詩人の専売特許のようなものだが、相当に優秀な一握りの詩人しか為し得なかった。だからやってみると意外なほど簡単に別の型にはまる。それがステレオタイプな私小説の書き方である。そんな私小説を高尚な文学だとするのは幻想だ。
文学の世界で権威に頼るのは間違っている。どんな場合でも作品の優劣は自分で下し、それに責任を持つ。それが文学者の倫理だ。心理ドラマであれ起承転結のプロットであれ物語が小説の基本である。そこからどこまで作家思想の質を上げてゆくのかで作品の優劣は決まる。芸能人や文化人の作品は小説の原点を再確認させてくれる。
2年間浮気していた。それがキレイにばれた。なぜばれたのかはそれから半年が過ぎてもわからない。ある朝気がつくと、引っ越してきたばかりのリビングのテーブルの上に2枚の紙が置かれていた。映画雑誌に載っていた浮気相手のプロフィール写真の切り抜きと、彼女の名前と所属事務所と自宅の住所まで書かれたメモだった。(中略)丁寧な字だった。ここまで丁寧な妻の字を見たのは、結婚して7年になるが初めてだった。その時間のかけ方が、じわじわとことの不穏さと、もう引き返すことのできない現実の無情を訴え始めるのだった。(中略)
額に滲む汗をシャツの袖でぬぐい、ふと顔を上げると、エメラルドグリーン地に中国の子供の刺繍の入ったスカジャンを羽織ったワンピース姿の妻が、リビングのドアを開けて無表情に海馬の顔を見ていた。まるで実験を観察する科学者のような眼差しだ。(中略)海馬はただ膝からヨロヨロと崩れるように座る。そして、リビングの冷たい床に頭をこすりつけて死の淵の犬のようなうめき声をあげながら、妻の黒いヒールスリッパを鼻先に土下座する。するしかなかった。
(松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」)
「もう『はい』としか言えない」の主人公は物書き兼俳優の海馬五郎である。仕事で知り合ったスタイリストの女性と浮気していたのが、元スタイリストの妻にバレた。海馬はバツイチで、離婚後に経験した淋しい生活を心の底から怖れている。また離婚になると思った海馬は即座に妻に土下座して謝ったのだった。海馬の心を見透かしたように妻は「・・・無条件ね。無条件降伏、無条件・・・」と半笑いしながら言った。
上々の出だしである。海馬は性格俳優としてCMなどにも出演する男で、もう初老に差しかかっている。それなりの社会的地位もプライドもある。そんな男があっさり自分より若い妻に土下座して許しを請う。つまりこの小説のプロットは〝墜ちること〟に設定されている。いったん墜ち始めた以上、底に着くまで墜ちなければならない。
妻は毎日二年間自分とセックスし、外出しているときには一時間ごとに誰といるのか写メしてメールすることで許すという条件を出した。海馬は「がんじがらめじゃないか」と思うが、心から離婚と孤独を怖れているのであっさり妻の条件を呑む。ただ意外なところから海馬に救いの手が差し伸べられた。三十年前に書いた戯曲の脚本に、フランスの富豪が主催する「エドゥアール・クレスト賞」が授与されたのだ。聞いたこともない賞だが授賞式はフランスで行うという。滞在期間は一週間で、旅費や宿泊費は主催者クレスト氏もちだ。海馬は行きたい。妻との約束で、外出中でも仕事なら、メールも電話もしなくてよかったからだ。
もちろんエドゥアール・クレスト賞はクセモノだ。フランスから送られてきた手紙には「「ルールに縛られない自由な精神」を、実践して生きていると評価する世界の5人の文化人」に与えられる賞とあるが、海馬はまったく自由ではない。また受賞した『椰子の木の下の小人』という戯曲は、海馬自身にとっても自慢できる作品ではなかった。フランスに着き、クレスト社唯一の日本人女性社員・乾美喜子に「あなたの作品は読みましたが、私には難解で、退屈しました」と言われた海馬は「バカめ。難解ではない。へたくそなだけだ」と思う。ここにも墜ちることのテーマがある。ただクレスト賞によって新たに自由というテーマが加わった。松尾スズキ氏らしく、物語は演劇的ヴィジュアル要素をふんだんに使いながら進む。
「病を患って、ずっと、自分の痛みと向き合って来た。(中略)私は芸術家になれなかった。焦がれるほどなりたかったが、ただただ才能がなかった・・・」
もっと喋りたいことがあるはずだが、憐れなクレスト氏はまた痛みで小さく呻いてのけぞり、なにかをあきらめて、ビュイッソンを呼び耳打ちした。(中略)痛みを断ち切り安楽死をとげ、自分の死のワークショップの成果に皆が感動し、それを生涯唯一の作品としてたたえ、伝説として祭り上げられることをよるべとして。
「それでは、授賞式を始めます。クレスト氏の自殺を認めますか? バラスコさん」
バラスコは「ウイ」と答えた。答えてしまった。(中略)その気持ちはわかる。
もう二人で説得するのは無理だ。(中略)
もう「はい」と言うしかない。
それしか、選択の余地はない。モニターの向こうで、1階の観客たちがバラスコの返事に歓声を上げているように見える。(中略)
なぜ、自分がこんなに怒りを覚えているのか、やっとわかった。
「はい」と言えば、自分が生涯この大げさな茶番に影響された作品を書き続けるに決まっているからだ。(中略)
それが一番の狙いなのか? しかし、もう胸倉つかんで確かめることはできない。
(同)
フランスに行くことにしたが、海馬は飛行機恐怖症で英語もフランス語もできず、おまけに外国人と接するのが苦手だ。知らない国に行っただけで萎縮してしまう。知り合いの紹介で齋藤聖という日本人とフランス人のハーフの青年が同行することになるが、この男がまた一癖ある。ちょっとアスペルガー気味で、CG制作会社に勤めていたが精神を病んで退職し、岡山の親戚で農業の手伝いをしている。フランス語はできるが万事にピントのはずれたこの青年のせいで、海馬は妻から解放された時間を存分に楽しめない。またエドゥアール・クレスト賞が、単に自由な芸術家を称揚するための賞ではないことがわかる。
クレスト賞の受賞にはフランスに来ることと、ワークショップに参加することという条件がついていた。海馬はほかの受賞者とともに車に乗せられ、目隠しされて授賞式が行われるワークショップ会場に連れて行かれる。国境を越えたスイスだ。スイスでは安楽死が認められているからである。実は瀕死の床にいたクレスト氏は、五人の芸術家に、安楽死を「認めますか?」と聞き、「はい」と言わせることを受賞の条件としていたのだった。それにより海馬を含む奇妙な、だがクレスト氏好みの芸術家たちの心に自分の死を刻みつけ、それをワークショップ会場のスクリーンに映し出して観客たちの心にも残るようにしたかったのである。
クレスト氏がいつ死んだのかまったくわからなかった。思わず、バラスコと顔を見合わせた。もっと、けたたましい感情が自分たちの中に立ち現れると思っていたからだ。期待していたかと言ってもいい。(中略)後ろを振り向くと、淡々とした表情で看護師が機械に黒いカバーをかけているのが見えた。とにかくなにも噛みしめる間もない。あまりにもあっけない幕切れだった。あそこまでざわついていた心はどこに消えて行ったのだ。
(同)
クレスト氏の最後の望みであり、海馬もまたどこかで期待していた死の衝撃は、実際にはあっけないものだった。海馬が怖れていたように、それが彼の今後の芸術活動に大きな影響を与えることもなさそうだ。それがこの小説の〝墜ちることのテーマ〟の終着点である。ただもう一つの〝自由というテーマ〟は不完全燃焼で終わっている。死は人間を自由にしない。人間の自由は死の手前の生にしかない。
この自由のテーマはクレスト賞の授賞式であり、彼の安楽死が行われるワークショップ会場に集まった観客で表現されている。海馬たちがワークショップ会場につくと、そこではゲイたちがどんちゃん騒ぎをしていた。旅行ガイド兼フランス語通訳の齋藤青年は、「彼らは、普段身体を売ったり、盗みをしたり、麻薬を売ったり、とにかくスイスでは最下層のゲイです。そして、パーティで、月に一度パフォーマンスをして、審査員に高い点数をもらうことだけが生きがいなんだそうです。(中略)これをプロデュースしたクレスト社長は、非常に尊敬されています」と会場で聞いた話を通訳してくれた。
厳しい現実世界での自由は、最下層にまで墜ちたゲイたちに託されている。しかし墜ちることのテーマほど掘り下げられていない。劇作家でもある松尾スズキ氏が、演劇的なゲイたちのパフォーマンス描写に淫してしまった気配がある。ただ極めて高いビジュアリティを持ち、次々に事件が起こる「もう『はい』としか言えない」という作品は、最後まで読者を飽きさせない。作家は末尾まで読者に小説を読ませなければ勝負にならない。そして読者は物語がなければ最後まで付き合ってくれない。物語以上の文学性を云々するのは、確実に読者を結末まで引っ張る作品を書いてからの話である。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■