NETFLIXオリジナルドラマ
【出演】
古川雄輝、優希美青、白洲迅ほか
【原作】
三部けい
【監督】
下山天
よくできている。原作は大ヒットした漫画であり、今までアニメ化や映画化もされているということだが、テレビドラマとしても連続ドラマとしての特徴を生かし、なおかつ映画のような雰囲気、しかも重くなりすぎない手付きで、見応えがある。フジテレビなどが、もしかしたらなくなってしまうのではないかと思わせるほどの組織疲労をみせている昨今、Netflixのあり方にも関心が寄せられるのではないか。
このレビューで何度も論じているように、しかしドラマも映画も結局は脚本だ。ウッディ・アレンが言うように、神は脚本家であって監督ではないのだ。すなわち監督は現場の王であり、プロデューサーが現世の支配者であって、脚本家が作品世界の神だ。リスクを負うプロデューサーは尊敬に値するが、作品のコンセプト、中心テーマを具現化させるのは脚本家である。
だが原作漫画などがある場合には、脚本家の仕事はそれほど大きくはない。原作漫画が神ではあるが、それを正しく解釈し、メディアに合わせて脚本にするのは大仕事ではなくても技量が要る。現世の様々に目配りしつつ、神のコンセプトを与えられた世界に表わすのだから、預言者ぐらいではあろうか。すなわち伝えるのは神の言葉で、けれども伝え方次第で伝わるかどうか決まる。
そして原作漫画が大ヒット作品で、繰り返し映像化されているというのは、新たな映像作品にとっては縛りも不自由もあろう。それでも繰り返し映像化されたり、舞台化されたりする作品は要するに力があるのだ。力というのはもともと人気があって観客を動員する、あるいは予算的に映像化しやすい、といったことではない。強いテーマ性が引力を持ち、なおかつ普遍的である、ということだ。
この作品の道具立ては、それほど目新しいものでも、凝りに凝ったものでもない。時間をフィードバックさせる特殊能力を持つ主人公は、大がかりであればタイムマシンのコンセプトでエンタメにもなり、孤独であれば抒情性を醸す。特殊能力でもあり、病いでもある、というわけだ。ここでの主人公も後者であり、孤独でなおかつ個人的に負うものを大きく抱えている。
時間のフィードバックを表現するのに最適なメディアは、映画やドラマであろう。最も向かないのは演劇で、それは本来的に一回性のものだからだ。小説も、読者が同じテキストを何度も読まされるという実験小説的なものになりがちである。フィルムはまさに巻き戻されるものであり、それ自体が時間的なフィードバックを本質とする表現形態だ。すなわち本質的にポストモダンでもある。
本作の原作は漫画で、漫画も画像表現だから、時間の巻き戻しが表現しにくいことはないだろう。ただ大ヒットに繋がるには、やはり漫画表現の本質にどこかで触れている必要がある。ここではそれは端的な善悪の基準ではないか。主人公は「何か悪いこと」が起きたときにかぎり、その原因となる時点まで過去に戻ることができる。それによって未来を作り変えることが可能になる。
それはずいぶんと便利な、またご都合主義的で脳天気になりがちな設定のようにも思われる。だが、ドラマのトーンはそうではない。主人公は母を殺されてしまうのだが、その因果の源を辿ろうとすると、すごく昔に遡ってしまう、というのが物語の始まりである。ちょっとした後悔を癒やすための便利な機能、にはならない出来事がなければ、なるほどショートショートで終わってしまう。
「時間を遡る」ことはフィルムにとっては本質であるために、そのあり様そのものが表現の核となることが多いが、漫画においては一般的かつ社会的、感情的な善悪の基準に従って、そのフィードバック機能がはたらく設定が正解だったろう。私たちが日常経験する後悔、できることなら時間を巻き戻したい、と思う強い感情をテーマとし、それを映像表現に無理なく滑り込ませるのは、勝算が高いとはいえチャレンジングであるのは間違いない。
田山了一
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