『おみおくりの作法』(2013年、イギリス・イタリア)ポスター
監督ウベルト・パゾリーニ
ウォーキング・ツアーというのは、大きな駅だとか記念碑の前だとか、とにかくわかりやすい場所に特定の時間に集合して、何がしかの料金を払うと誰でもその場で参加できる、きわめて気楽なツアーである。例えばロンドンにはゴースト・ツアーなるものがあって、街の中心部の歴史ある通りを抜けながら、やれ「あそこにあるアン女王の石像は夜中になると動くんですよ」とか、「この建物には『日記』で有名なサミュエル・ピープスが住んでいました。たまに出ます。すれ違うと、実に優雅にお辞儀をするんです」などと、おそらく機械仕掛けのように毎週おなじ話をしている案内人の話を聞きながら、歩き疲れた頃にちょうどよく目の前にパブが現れ、そこで一杯引っかけるという趣向である。
こんな前置きをするのも、イギリスにも幽霊がいるということを言いたかったからである。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、日本人が「幽霊」と聞いて思い浮かべるのとよく似たそれがかくも跳梁跋扈している国は、実は西洋にはめずらしい。オリュンポスの神々は人間相手に悪さはしないし、北方の精霊の類は古代の森から出ようとしない。それに南方のように気候が温暖すぎてもだめで、こうなると腐りかけた屍体が息を吹き返して襲いかかってくるという、いわばヴードゥー的な魔物になってしまう。要はちょうどよい按配に文明と自然が同居し、朝夕には適度に冷え込むような土地でないと、ひゅー、どろどろという幽霊の登場は期待できないわけだ。東欧の残虐な領主を吸血鬼に洗練させたブラム・ストーカーや、日本各地に伝わる怪談に魅せられた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが、ともにアイルランド人であったことは偶然ではない。
映画「おみおくりの作法」(2013年、英・伊)もまた、そんなイギリスの風土を抜きにしては語れない作品である。監督のウベルト・パゾリーニはイタリア人だが、伯爵にしてルキノ・ヴィスコンティの甥でもあるというパゾリーニは銀行家時代に十二年もの歳月をイギリスで過ごしているから、おそらくその時期に幽霊とお近づきになったものと思われる。なおパゾリーニが映画界で名声を獲得したのは名作「フル・モンティ」(1997年、英)のプロデューサーとしてであるから、彼がある意味でイギリス人以上にイギリス文化に染まった人物であることは間違いあるまい。
さて主人公のジョン・メイはロンドンのランベス区にあるケニントンの民生委員で、主な仕事は孤独死した住民の葬儀や埋葬の手配、後に残された住宅の整理、そして親類の探索である。ときに腐臭の漂う孤独者の住処に防護服を着て入り、葬儀費用を補填するために売却できそうな家財道具を特定すると、今度は故人の経歴を特定できそうな書類や、大切にしていたことが想像される品物をよりわける。家族が見つかると葬儀に来るよう説得を試みるが、もう何年も連絡をとっていない親族が素直に応じることはまれである。ジョンは故人の宗旨に合わせた葬儀を手配し、写真や手紙などを素材に、意外な文才を発揮してそつのない弔辞を書く。最後に遺灰を自治体の共同墓地に埋葬すると、次の不幸へと向かうのである。
表情を持たないジョン
静物画のような、ジョンの無色の食卓
ジョンは名前からもわかるようにごく平凡な人物である。身なりは清潔だが気は弱く、そもそも自己主張をすることに興味がない。ジョンの生い立ちは明かされないが、少なくともいまは小さな単身者用スタジオに住んでおり、味気ない(色のない)食事を繰り返すだけの毎日である。ジョン自身がいつか孤独死するのではないか、という不安を、観客はすぐに抱くだろう。
ある日、ジョンは上司から突然、解雇を通告される。ジョンが仕事に時間をかけすぎているというのが理由で、今後は孤独者の「処理」は隣に地区と合同で行うことになったというのである。ジョンは動揺を隠せないが、ともあれ最後の「顧客」となることが決まったビリー・ストークの調査に乗り出した。ビリーは図らずも、ジョンと同じ建物の住人だったのである。
調査の詳細は省くとして、もちろんジョンは、その過程で恋をすることになる。彼女は無色なジョンの生活に咲いた一輪の薔薇、という陳腐にすぎる表現を使いたくなるような赤い衣服を身にまとって登場する。だがそこはイギリス映画である。いや、イギリス人でないからこそ必要以上にイギリス的な表現を目指すパゾリーニの作品である。つまりほとんど牽強付会なほどのブラック・ユーモアの犠牲になって、ジョンは不慮の事故で命を落としてしまうのだ。そして当初の観客の不安どおり、ジョンは無縁仏となり、共同墓地に葬られるのである。しかし無縁仏とはいっても、ジョンはこれまで数多の無縁仏を慰めてきた張本人である。森閑とした墓地の四周から、一人、また一人と幽霊がジョンの墓に集まってくる……。
と、話が幽霊につながったところでこの映画の解説を終えてもいいが、気になるのはジョンという人間の本質である。本編を通じて彼は一度も自分の気持を言葉にしないし、それどころかしゃべることすらまれである。では寡黙な真人間かと言えば、どうもそうではない。例えばジョンには盗癖がある。それは「どうせ処分されてしまうものを、こっそり自分のものにする」という積極的な盗癖ではあるが、例えば調査対象者の個人的な持ち物や写真を毎日のように失敬しているのは完全な規定違反であるし、ある場面では公文書館の書類まで盗んでいるから、これはもう犯罪者と言われても仕方がない。しかもそれは明らかに業務のためというよりも、個人的な満足のためなのである。ジョンの最大の趣味は自分が埋葬した人々の写真をアルバムに整理することだが、このような記念品の蒐集が連続殺人犯に見られる典型的な行動であることは言うまでもない。ジョンは言わば「死者専門」の連続殺人犯なのである。
職場の資料を失敬する
ジョンの「犯行現場」
彼女はジョンを変えたのだろうか?
このように考えてみると、ジョンの生活に「色」を持ち込んだ恋人(候補)の存在も危うくなってくる。少なくとも彼女には、友人としての好意以上のものはなかったのではないだろうか? ジョンはもし事故に遭わなければ、ゆくゆくは彼女を恐怖に陥れるような行いに出たのではないだろうか? そしてジョンの妄想は、もちろん歴代の死者たちが自分に感謝しているに違いない、という部分にも及んでいる。墓地に寝転び、眺めのよい、心地よい風の吹き抜けるその場所で、永遠の眠りにつくことを心待ちにしていたふしさえあるジョンである。
ところで原題の Still Life はジョンが送った「静かな生活」の意でもあろうが、美術用語では「静物画」となる。静物画にはむろん静謐のなかで神への感謝を捧げる意味があるから、例えばジョンの侘しい食卓も、その意味では美しいものとなり得るだろう。だがさらに皮肉な解釈をすれば、Still Life は「まだ生きている」と読めなくもない。それは生に絶望したジョンの魂が発した呪詛かもしれないのだ。そうであってみれば、少なくともこの映画の幕切れは、同様の主題を扱う凡作が陥りがちな不快なお涙頂戴とは程遠い。
とうに死を見つめていたジョン
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■