『髪結いの亭主』(1990年、フランス)ポスター
監督パトリス・ルコント
怠けたいのは忙しい世の常、映画の世界でこれを極端まで推し進めると、例えば口うるさい女房が死んだのをこれ幸いとベッドで「隠居生活」を始める農夫の姿を描いたイヴ・ロベール監督『ぐうたらバンザイ!』(1968年、仏)のような作品になるのだろうが、同じフランスの『髪結いの亭主』(1990年、仏)となると、これはもう題名からして期待が持てる。妻の稼ぎで極楽とんぼ、この理想は時代も文化も易々と超えて人類共通であるらしい。だがそこは『仕立て屋の恋』(1989年、仏)でまるで江戸川乱歩の小説に出てきそうな孤独者の狂気を描いたパトリス・ルコント監督である。どうもこの『髪結いの亭主』も、陽気な怠け者の人生賛歌とはいきそうもない。
主人公アントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)は回想する。海辺で過ごす夏の楽しみは、シェーファー夫人がひとりで切り盛りする床屋へ毎週のように通うことであった。赤毛で体臭が強く、豊満な四肢を持つ夫人の圧倒的な存在感を、少年は刈布越しに静かに貪る。泡だらけになった頭を流してもらうとき、乳房が頰に触れる。ときには下着をつけないその乳房が、外れたボタンの向こうに剥き出しになっている。少年は夫人の柔らかい指と刃物で地肌をなぞってもらいながら、その椅子の上で永遠に時が凝固することを願う。だが少年は打算的である。夫人とは年齢が離れすぎていることは明らかだ。だから将来、いつかまた出会う理想的な髪結いの亭主になろう、と少年は決意する。まさか少年の冷酷さを見抜いたからではあるまいが、どこか陰のあった夫人はほどなく自殺する。
シェーファー夫人に宿命を植えつけられるアントワーヌ
どのくらい時が経ったかはわからない。だがアントワーヌがもはや初老に近づこうというときになって、その出会いはやってきた。憂いを帯びた優しい微笑、柔らかい物腰、健康的な肢体を持ち、小さな理髪店を一人で守るマチルド(アンナ・ガリエナ)。初対面でアントワーヌは結婚を申し込み、二度目の邂逅でマチルドも承諾する。兄夫婦を証人に立てての形ばかりの式を理髪店で挙げると、二人の永遠の時が刻まれ始める。客を待つあいだ、マチルドはレジの前で雑誌を読む。アントワーヌは長椅子でクロスワード・パズルを解く。目が合うと微笑み交わす。客が来る。たいていは常連客である。マチルドは静かに、丁寧に髪を刈り、髭を剃る。前かがみになる。腰が伸び上がる。アントワーヌは欲情する。店がひける。二階の小さな寝室で二人は愛し合う。ときには店で愛し合う。コロンを調合した危険なカクテルを作り、したたかに酔った夜もあった。酔ったアントワーヌは踊り狂う。子供の頃からの唯一の趣味は、中近東の歌謡曲に合わせて即興で踊ることであった。儒教の礼楽思想ではこのような異国情緒あふれる音曲はあまりに扇情的であるがゆえにご法度であったというが、それこそアントワーヌの望むところである。
静止した時のなかにいる二人
ところが永遠は、永遠なるがゆえに終焉を迎える。篠突く雨の夕、衝動的にアントワーヌを求めたマチルドは、買い物へゆくと言い残して店を出る。そして激流と化した川に飛び込むのである。「あなたに愛されているうちに死にます。それが私の幸福です」。アントワーヌは亡き妻のかわりに床屋を続ける。客が来る。一見の客である。主人は髪を洗い、客が中近東の出身と看てとると、得意の踊りを披露する。打ち解けた客にアントワーヌは言う。「妻はもうじき戻ります」。
きわめて余白の多い筋書きである。アントワーヌは回想する。問題はまさにそこにある。私たちはアントワーヌの回想にすべてを委ねている。砂に優しく波の覆いかぶさるクリーム色の風景のなかにあった少年時代から、マチルドが客の顔に塗る泡立てたクリームに欲望を掻き立てられる壮年時代まで、アントワーヌは絶対的な語り手であり続ける。
トルナトーレ監督の『マレーナ』(2000年、伊・米)の原型とも言えるような、妄想に縁取られた少年時代。「僕は髪結いの亭主になるよ」と宣言して父にひっぱたかれ、寝室に籠もったアントワーヌは、これもクリーム色の天井を見つめながら自分を慰める。するとアントワーヌは青年を通り越し、初老の姿となって観客のまえに戻って来る。出会うべくしてマチルドと出会い、古びた床屋で理想の生活を送る。なぜそんなことが可能になったのか。アントワーヌは「強く望めば手に入らないものはない」とうそぶく。床屋の天井は傷んで、ところどころ剥がれ落ちている。「塗り直そう。クリーム色がいいだろう」とアントワーヌはつぶやき、観客を少年時代の夢のなかへ送り返す。
泡立つ海という原風景
天井に夢を見る少年
要するに、無粋な疑問が避けようもなく立ち起こってくるのだ。マチルドは実在するのだろうか。「恋人はたくさんいた」と言いながら過去に一切触れようとしないマチルドが、なぜアントワーヌのような空虚な人物に、狂うほど恋い焦がれるのか。物語の最初と最後にだけ登場する現在のアントワーヌを見ると、疑問はますます深まる。床屋のハサミで清潔に整えられていたはずの彼の髪は、いまや羊のように、バリカンで無骨に刈られているだけだ。劇中、ある常連客がこんなことを言う。「おれの友達はまったく女っ気のないやつで、髪も自分でバリカンで刈ってるんだ。鏡も見ないでやるのに、うまいもんだよ」。注意深い観客は、マチルドと幸せに暮らしているはずのアントワーヌの顔が、その瞬間はっきりと青ざめることに気づくだろう。あるいはアントワーヌは常にひとり、理想の女と暮していると信じて孤独な生活を営む、それこそ床屋の鏡に閉じ込められたような人物ではないか。
虚空を見つめる「現在」のアントワーヌ
だが私たちに幻想を拒絶する資格はない。おそらくマチルドは、アントワーヌのもとへ遣わされた美神なのだ。そういえばウェヌスも、天に向かって屹立したウラノスの陽物が、海に投じられて生じた泡から出現したではないか。するとマチルドはあのクリーム色の海が広がる風景のなかで、寝室の天井に向けて伸び上がった少年の幼い欲望から生まれた奔放なウェヌスに他ならず、大人になったアントワーヌの見た夢は、神話の世界へと戻る一瞬に美神が見せた、うたかたの夢であったのかもしれない。その夢の記憶は、逆回しのレコードの調子外れの音律のように、虚しく天を仰ぐアントワーヌの脳裏にこびりついて離れようとしないのだ。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■