『JUNO/ジュノ」(2007年、米・カナダ)ポスター
監督ジェイソン・ライトマン
前回の記事で取り上げた「シング・ストリート 未来へのうた」(2016年、アイルランド・英・米)と同じく、寓話として捉え直して初めて腑に落ちる作品に「JUNO/ジュノ」(2007年、米・カナダ)がある。
「JUNO/ジュノ」と言っても、まさか「ジュノ・ジュノ」と読むのではあるまい。このような「比較的容易な原題(あるいはその英訳)を英字で記し、スラッシュで区切り、そのあとにカタカナで発音を記す」という邦題の設定法は業界ではひとつの伝統になっているらしく、たとえば筆者がある年のある月に観た映画だけをざっとふりかえっても、「Mommy/マミー」(2014年、カナダ)、「I AM YOUR FATHER/アイ・アム・ユア・ファーザー」(2015年、西)、「COP CAR/コップ・カー」(2015年、米)、「THE WAVE/ザ・ウェイブ」(2015年、ノルウェー)と、ほとんど枚挙にいとまがない。横文字で書いたほうが見た目がよいが、読めないと困る、という嫌味ともとれる親切なのか、はたまたフリガナに過ぎないのか、なんとも判断がつかないが、いずれにせよあまり考えずにつけた邦題であることは間違いない。「拳銃《コルト》は俺のパスポート」(1967年、日)とか、「現金《げんなま》に体を張れ」(1956年、米)とかの題名に見られるこだわりとはわけが違うのである。そして哀しいかな、「比較的容易な原題(あるいはその英訳)を英字で記し、スラッシュで区切り、そのあとにカタカナで発音を記す」方法によって邦題をつけられている映画は、たいてい、あまり面白くない。
もちろん例外は少なくないし、「ジュノ」(以下、このように記す)もそのひとつである。だが冒頭に述べたように、それにはやはり鑑賞する側の飛躍が求められる。「この映画は寓話だ」などというのは「渾身の感動作!」というような惹句と同程度の重みしか持たない言葉ではあるが、「渾身の感動作!」と謳われる映画のほとんどが欠伸によってしか涙を誘わないのと同じように、寓話という形式を当てはめることが有意義である映画も実際にはわずかである。少なくとも、映画自体がそれを観客に要請する、という意味においては。
さて本作は、ミネソタの高校生ジュノが、恋人というよりも親友という関係にある同級生ポーリーの子供を妊娠するところから始まる。ジュノには子供を抱えて進学する覚悟もなければ、ましてやさっさとポーリーと結婚して共働き生活を送るつもりもさらさらないから、ここは医療的に処置してしまおうとクリニックを訪れる。しかしクリニックやその利用者たちの暗澹たる様子に拒絶反応を起こしたジュノは、いっそのこと健康な子供を産んで養子に出そうと決意するのである。しかし誰でもよいというわけにもいかない。そこで個人広告紙を読み漁り、子供を望んでいるマークとヴァネッサの夫婦に会いにゆく。マークはバンド活動に区切りをつけ、コマーシャル用の音楽を制作しており、パンク・ロックとホラー映画が好きなところはジュノとそっくりである。ヴァネッサは天性の子供好きで、いつか出会う我が子を迎えるための準備に余念がない。ジュノはこの二人ならば信頼できると直観し、生まれてくる子供を育ててもらうことを約束する。
幸い、ジュノの父親と継母は理解がある。少なくとも、娘を理解しようとすることを諦めない。一方ポーリーとの関係は、それほど順調にはいかない。ポーリーはジュノを愛していることを隠そうとしないが、踏み切れないジュノは冷たくあしらい、ポーリーは仕方なく他の同級生をプロムに誘う。ところがそれを知ったジュノはどうしたわけか激怒してしまい、気の弱いポーリーをすっかり困らせるのである。さらにそこへ追い打ちをかけるように、養父になるはずのマークが、ヴァネッサと別れるつもりだと切り出してくる。しかもその理由の一端は、ジュノへの好意だという。折り悪しくヴァネッサが帰宅し、絶望的な口論が始まる。ジュノは夫婦の家を飛び出し、涙にくれ、ようやく自分がポーリーを愛していることを認める。
ついに産気づいたジュノは、元気な男の子を産む。ポーリーも駆けつけ、にわかに赤ん坊に愛着を見せるジュノを慰める。結局、ジュノの子供は、ヴァネッサがシングルマザーとして育てることになった。そしてある夏の昼下がり、ジュノが妊娠前のように自転車でポーリーの家にゆき、二人で自作の曲を歌うところで、映画は終わる。
病院へ向かうジュノと両親も新たな絆を獲得する
このような筋書きであるから、女子高生の妊娠という最も表層にある要素だけが観客の耳目を引きつけてしまうことには、ある程度うなずけるものもある。「ジュノ」は本国ではミニシアター系の映画として配給されるはずだったものが、公開直前のトロント国際映画祭で高く評価されたために全国公開となり、終わってみれば配給会社であるフォックス・サーチライトにとって歴代最高の興行収入を記録したのだが、その際にも高校生の妊婦が登場することが観客の期待を高めたことは間違いないだろう。
とくに日本国内では、まだ主演女優エレン・ペイジの名前が広く知られていなかったこともあって、なおさらそのような受け止められ方をした向きがあるように思う。不幸にして日本では「女子高生の性の乱れ」というような切り口が非常に人気である。ここ数年でもいわゆるJKビジネスの隆盛はめざましく、諸外国からの批判をよそに緩やかな取り締まりしか行われていない有様で、どうも日本社会にとって「女子高生」とはいつまで経っても人格というよりも商品名であるらしい。もっとも、大統領補佐官の肩書で来日したイヴァンカ・トランプに「日本は楽しいですか」という馬鹿丸出しの質問しかしない連中がジャーナリストとしてまかり通っているのが日本である。若い女性に知性を認めないのは当然だろう。
したがって「ジュノ」も下手をすれば、「うっかり妊娠してしまった女子高生が、出産と恋について悩みながら成長する、心温まる物語」というような噴飯ものの枠組に閉じ込められかねないのである。だが画面の四隅にちりばめられた原色の記号を解き放ってやれば、「ジュノ」の神話も息を吹き返すのだ。
ジュノはアメリカの知的な若者の典型である。物質主義を謳歌しながらも文化や思想への感度は高く、ただやみくもに新しいものを追いかけるのではない。服装や持ちものへのこだわりを通して、自らの価値観を表現することに情熱を傾ける。だがまだ自分が特別な人間でないことを認められるほどには成熟していない。
そんなジュノは原色で身を固めている。妊娠のために倍加した食欲を満たすのはもちろんファストフードで、ハンバーガーを愛してやまないジュノは使っている電話機までハンバーガーの形だ。しかしコーラばかり飲んでいるわけにはいかない。ビタミンが必要になればオレンジ・ジュースの代表選手であるサニーDをぐいと呷る(ただし果汁は5%)。
原色のなかでファストフードを貪る
原色の栄養補給
この電話機は商品化されヒットした。いわば物質主義への返礼である
しかしこの原色は悪さもする。そもそも妊娠を告げる悪阻によってジュノが真先に嘔吐したのは、見る目もあざやかな青色のフローズン・ドリンク、スラーピーである。してみれば妊娠というジュノの危機をもたらしたものこそ、原色に塗りたくられた物質的世界なのだ、と言うこともできるかもしれない。それを裏書きするように、ラストシーンでようやく静かに愛を語りあうようになったジュノとポーリーのシーンはむしろ穏やかな中間色に満たされており、そこにある「文明の利器」も自転車やギターといった、長い歴史を持つ(したがって懐かしさを誘う)ものばかりなのである。
青い吐瀉物が妊娠を告げる
ラストシーンで愛を確認するジュノとポーリー
もちろん「ジュノ」の物語が、ローマ神話を下敷きとしていることは言うまでもない。ジュノ、あるいはユーノーは、結婚と出産を司る最高位の女神であり、ギリシャ神話のゼウスと同一視される最高神ユピテルの妻である。ユーノーはユピテルとの間にも子を成しているが、軍神マルスを出産したときに限っては一人であった。花の女神フローラの差し出した魔法の花に触れたことで妊娠してしまったのである。
だが「ジュノ」を、気位の高い独立した女性が一人で子供を産むだけの話と総括してしまうのは拙速であろう。何故ならジュノは自分が周囲のあらゆる人々に助けられていることを自覚して初めて、無事に出産に臨むからである。それは物質主義からの脱却という形で比喩的に表現された、モノの世界から人間の心の世界への帰港なのだ。ユーノーという名の語源が「若さ」であることも、これと矛盾しない。だからジュノとポーリーはたとえ愛し合っていても、モノの世界で過ごされた未熟な時期の結晶である子供を必要とはしないのである。そして大人になれない大人であり、コマーシャル・ソングを作っている=物質主義の手先であるマークにも、やはり父親になる資格はない。その役目はとうから心の世界に生きていたヴァネッサが引き受けることになる。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■