今月号の「青春と短歌」という特集は面白い課題ですね。編集部リードには「青春の強みは、まだ完全に形成されていないエネルギーにあります。どのように変化していくか解からない自分をぶつける器として短歌は最適なのかもしれません」とあります。これはこれで一つの見解なのですが青春期を過ごして成熟してゆく作家の場合と青春期しかなかった歌人を検討する場合ではテーマの質が変わってきます。
多くの歌人にとって石川啄木や中城ふみ子や寺山修司のように比較的若くして亡くなった歌人の歌ばかりが一般社会で持ち上げられるのは歯がゆいところがあると思います。夭折者の歌だから人気があるのかそれとも別の理由があるのかということですね。また長命を保った場合には成熟を深めてゆかなければならないわけですがそれと青春短歌はどう繋がっているのかという問題があります。
ほとんどの歌人は長命だろうと基本的に短歌の青春的激情を手放そうとはしないのではないでしょうか。つまり青春短歌の激情と短歌表現そのものは本質的に密接に関係しているかもしれない。ただ夭折者を代表とする青春短歌に独特の魅力があるのも確かです。それはなぜなのか。この問題は短歌文学は作家個人の強い感情表現だと言って済ますより面倒です。
寺山修司に似た面売りがあらわれて面を燃やして出てゆきにけり
三島由紀夫蹶起の報を知らせくれしは立松和平いまだ学生
噎せ返る肉の臭いと囀るは破れかぶれのあわれ啄木鳥
絶望的焦燥感の果てるなか歪みて笑う啄木の歌
牧水はいたたまれずに春の日の汗ばむ町に躍り出たり
(福島泰樹「下谷風煙録」)
福島泰樹さんはご自分を挽歌の歌人だと規定しておられます。死んだ者たちや失われてしまった風景や事件の記憶などを挽歌にするわけです。ある決定的な瞬間に立ち戻ってそこでの悲しみや怒りや哀切を鮮烈に短歌に詠む作家だと言っていいでしょうね。また中原中也連作で試みたように他者に憑依してそれを自己の人生であるかのように詠む歌人でもあります。一種のペルソナ手法です。
自分でやってみるかどうかは別としてこの福島さんの「挽歌手法」が短歌ととても相性がいいことは歌人なら直観的にわかると思います。短歌という表現形態が一番好むのは感情の高みでありそれを意識的に生成できるのが挽歌だからです。挽歌は絶唱でもあり基本的には一度限りのものですが福島さんはそれを一種の文学装置として繰り返すことができます。もちろん作家は辛い。人工的に感情の高みを作り出すために自分を追い込まなければならないからです。ただ挽歌は短歌芸術の一種の王道ですね。
福島さんの挽歌が時に鮮烈な抒情を生むのは皆さんご承知の通りです。そういった挽歌や絶唱を求めて福島さんは日々努力しておられる。ただここでは少し別の見方をしましょう。福島さんの挽歌は当たり前ですが危機と悲劇を生き残った歌人の表現です。共感と憑依があるとしてもそれは人工的感情の高みだと言うこともできます。つまり夭折者の〝絶唱〟と福島さんの〝絶唱〟には自ずから違いが生じる。それを言語表現技術の差として説明できるのかあるいは夭折者が短い人生と引き換えに得た特権であるのかは大問題です。
はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る 石川啄木
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり 永井陽子
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
比較的若くして亡くなった三人の作家の歌です。もちろんそれなりの数の短歌が残っている作家たちであり青春短歌という目で選べばこういった歌が浮かんでくるということです。外界(世界)に対する批評的意識はほとんどなく小さいけれど切実な自己の意識の中で閉じている作品です。つまり完結度(完成度ではありません)が高い。ただこれらの歌が感動を与えるとして読者が作家が夭折したと知っているかどうかはもはや卵と鶏の関係です。夭折者の残した歌だから感動を呼ぶという面は確実にあります。
もし夭折者の歌が夭折したという事実ゆえに感動を呼ぶとすればそれはある程度長生きしている作家にとってはちょっとした絶望です。夭折の不幸が短歌を輝かせるならそれはどんなに努力しても届かない特権的表現となってしまう。歌人なら誰もが啄木のように人口に膾炙する歌を残したいでしょうね。それが夭折と引き換えならすべての努力はムダということになりかねません。
問題を提起しておいて無責任のようですがこのアポリアについてはこれ以上詳細に考察しても得るものはないと思います。ただ夭折者の短歌が青春短歌と非常に近い位置にあるのは確か。技術も批評的精神も未熟なところがあります。だからこそ作家の精神が内向する。ぽっかり空いた心の空洞が光って見えるようなところがある。それは確かに純ですがもろいので青春短歌という印象を倍加させる。鮮烈なのですが老成しても見える。そのくらいの理解で十分だと思います。
水の中に根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ 中城ふみ子
気を抜けばがらんどうになるゆゑにあを空のした影締め歩く 河野裕子
中城ふみ子さんと河野裕子さんの病中詠です。河野さんは六十四歳でお亡くなりになったので夭折詩人とは言えませんね。ただこれらの短歌の内向の度合いはどこかで代表的な青春短歌や夭折歌人の作品と通底しています。実際の没年齢とは関係なく夭折者の短歌と同質の感動を受け取ることができます。
抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う 岡井隆
奴は女くったくのない瞳さえ俺の裸身の汗に裂かれき 佐佐木幸綱
観覧車よ回れよ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵万智
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる 野口あや子
特集から青春短歌の秀歌を六首引用しました。狭い意味での青春短歌ではこれらの歌の詠みぶりが代表的なものだと言った方がいいでしょうね。ちょっと変な言い方ですが作家は自分の人生が短いとは思っていない。青春期の感情の高まりはありますがそれは明日に繋がっている。つまり To be continued の歌です。これから作家も歌も様々に変わってゆくだろうことを予感させます。読者もそう思って作家の作品を読んでゆきます。
問題は歌人と短歌の成熟の質です。青春短歌を実際の青春時代の一過性作品として捉えなければその内実の意図的発現方法も含めてどう短歌を作って行くのかということです。俳句もそうですが短歌も後世に一つでも作品が残り人々に愛誦されれば大成功という意識が作家にはあります。作品集一冊でも三十冊でも究極を言えば一首残ればいい。ならば作家の〝生きがい〟という面を除いてどういった作品的(文学的)成熟を一つの極として捉えるのか。
残酷な言い方をすれば形式のある短歌・俳句文学には自ずから作品が舞い戻ってくるような定点があります。二十歳でも九十歳でもその定点に触れればアガリという面がある。若い夭折者は意識せずその定点に触れ成熟した作家は意識的にそこに触れる(かもしれない)。多分ですが〝私〟をさらけ出す短歌表現では究極を言えば〝非私〟の〝なにもない時空間〟に出るのだろうと思います。しかし澱が溜まるように技巧や観念を詰め込んだ老成者はそこから遠ざかってしまう。ただ年を取って定点をつかまえることができれば夭折者を恐れる必要はないでしょうね。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■