「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
「世界の死刑の9割は中国で執行されてるの」
それが本当かどうかは別として。
僕がはじめて会った中国人はそう言って、悲しそうな顔を僕に見せた。
その頃の僕は、といっても「その頃」と「今」の僕に大した差があるとも思えないけど、とにかく自分の国の死刑率(そういう言葉が正しいのかどうかわからないけど、雰囲気だけでも伝われば幸いだ)なんて気にかけたことはなかったから、そんなことを意識しながら生活している彼女に驚いたことを覚えている。
では日本人の学生のなかで、自国の死刑率を知っている人は果たして全体の何割くらいいるのだろう、と考えてみたりもした。
半分どころか、なんとなくだけど1割もいない気がする。
世界の死刑の9割は中国で執行されているのかもしれない。
「それが悲しいの」
悲しいし、と言った後に付け加えるようにして彼女は言った。
「恥ずかしい」
僕にはわからなかった。
僕が彼女と知り合ったのは、哲学の講義でたまたま隣の席にすわったからだった。担当の教授はハイデッガーの形而上学に対する姿勢を説明していた。単位をとりやすい授業だったせいもあって、キャンパス内でも特に大きい教室の席は学生たちで埋め尽くされていた。半分は寝ていて、もちろん僕もその輪の中に加わるべく意気揚々と参戦したつもりだった。
彼女は居眠りもせず、かといって板書をノートに写すこともせず、鼻を両手で覆っていた。見渡す限りの中でそんなことをしているのは彼女ひとりだった。
「どうしたの」
あまりに長い間そうしているので、たまらなくなって僕が訊くと「ガス室の臭いがする」と、小さいながらもハッキリとした声で言った。その出来事がきっかけで、僕はハイデッガーがナチス推しだということを知った。教授は形而上学について触れても、ナチスのことには一言も触れずに講義は終わった。
問題はすごくデリケートなところにあるような気がする。
問題は、中国人である彼女がハイデッガーの思想の裏にナチスの匂いを感じとって、それに対するささやかな抵抗を示したことにあるのではなく、そしてそういったことをのぞけば、彼女はごく普通の女の子であったことにあるような気がする。
普通の女の子とは、自分が普通の女の子であることを隠そうとする子のことをいうのだとすれば、間違いなく彼女は「普通の女の子」だった。
彼女はお気に入りのシャンプーを買うためだけに電車に乗るし、戸籍上とは別の、ウェブ上でのみ使う名前を僕が知っているだけでも3つ以上持っていた。先の「ささやかな抵抗」もふくめて、それらの特徴が見えてくればくるほどに、彼女は僕の前でどんどん普通の女の子になっていった。
僕にはそのことが、ただただ悲しかった。
なぜ悲しかったのだろう。
僕にはわからなかった。
「わからないことがあるの」
講義の帰り道の途中、彼女が口を開いた。
珍しいことだ。
どちらかというといつも質問するのは僕のほうだったし、僕に訊くくらいならば他の誰かに頼るという賢明な選択をとることのできる子だった。
「なに」
「なんでセダンは黒塗りなの」
「え」
セダン。
「車のセダンのこと?」
「そう、車のセダンのこと」
言われてみれば僕の中でもセダンは黒塗りという印象が強かったし、「黒塗り」と「セダン」はふたつでひとつのような気がしてきた。というか、そもそも僕は「セダン」が果たして車種のことを指すのか、メーカー名のことなのかさえ知らなかった。車に関係する言葉ということしか、僕は知らなかった。
だから、こう答えた。
「わからないけど、とにかくセダンは黒塗りなんだよ。世界中のセダンは黒塗りであるべきだし、黒塗りじゃないセダンなんてこの世に存在しないんだ」
「へえ」
妙に彼女は納得した表情を浮かべた。
浮かべてしまった、というべきか。
「世界中のセダンは黒塗りであるべきなんだね」
僕らはその秘密を共有することにした。
それ以降、僕にとって彼女は普通の女の子とはほど遠い存在になった。
たぶん「普通の女の子」というのはその人個人のことを指すのではなく、その人と自分の関係性を説明する上での言葉にしか過ぎないのだ、と賢明でない僕の頭は理解することにした。
次に哲学の講義の日が来たとき、他の席は混んでいるのに彼女の周りだけがやたらと空いていることに気づいた。僕は自分が日本人であることが急に悲しくなり、そして恥ずかしくなった。
僕は彼女の隣に座って言った。
「なんだかこの教室、ガス室の臭いがするね」
普通の男の子である僕にできる、精一杯のささやかな抵抗だった。
おわり
(第36回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月6日と24日に更新されます。
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