「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
何かしらをパート3くらいから始めてみることというのは、何だかいけないことをしているような気分がして気持ちが良かった。
映画『ロッキー』シリーズは最初に『ロッキー3』を観た。
第3部のその頃には、ロッキーはもうすでにアメリカの偉大なるボクサーとして讃えられていた。「イタリアの種馬」なんてあだ名がつけられていたなんて知る由もなかった。
英語の勉強でも僕は現在進行形を理解しないまま、分詞構文に手を出した。1番最初に覚えた分詞構文はSo tired~(とても疲れたので〜)だった、とでも書こうものならなんだか出来すぎた話になってしまうから、そういう嘘をつくのはやめようと思う。
最初に覚えた分詞構文が何だったのかはもう忘れてしまったけど、とにもかくにも品詞というものを知らない自分が分詞構文で構成された英文が描かれた黒板を眺めていることは、突然自分がどこか遠くの場所に連れ去られてしまったような気持ちになった。逆に言えば、そんな気持ちになりたいときは黒板の上の分詞構文を誰かに描いてもらえばいいのかもしれない。
そうすれば好きなときに、少なくとも思い立ったときに未知の惑星に旅立つことができる。ちょっとした宇宙旅行だ。
野球中継はだいたい3回くらいから見始めるほうが、飽きが来なくてちょうどよかった。テレビを点けたときに、もうどちらかのチームに点が入っているかもしれない可能性があるというスリリングは、自分に害のない日常に対するささやかなスパイスとなって僕を刺激してくれた。日常のスパイスなんていうのは、僕にとってはその程度でいいし、そのくらいがちょうどいいような気がした。
だいたいが飽きっぽい性格の僕にとって、野球を1回から9回までぶっとおしで観るなんていう観戦スタイルは合わないのだ。
話がそれた。
たぶん物事というのは1から、いや0から始めるべきなのだろうし、立つべきスタートラインにまずは立つことが大事なのだろう。会社の新人研修でまずは挨拶の練習を行うのと同じように、ボクサーがまずはパンチの練習ではなくステップ、リング上を動く練習を行うのと同じように。でもいきなりアッパーを打ってみるのだって、僕は悪いことだとは思わない。
「まともなアッパーの打てる日本人のプロボクサーなんて、実はそんなに多くないぜ」
僕にそう教えてくれたのは大手商社を入社3ヶ月で辞めて消防士になる道を選んだ、大学時代の先輩だった。
「そうなんですか」
「だいたい日本チャンピオンだって、まともなワンツーを打てる選手なんかそうはいないさ」
先輩はとくに「まともな」という部分を強調して言った。
ワンツー、というのはボクシングにおけるコンビネーションパンチのことで、ジャブとストレートを連続で出す、(たぶん)もっとも基本的なコンビネーションパンチのことだ。
「じゃあ」
僕は訊いてみた。
「まともなワンツーが打てさえすれば、日本チャンピオンになれるってことですか」
「打てれば、な」
先輩はそう言い切った後にゆっくりとタバコに火を点けた。しかめっ面をして煙を吐くその姿はなんだかひと昔前の刑事ドラマに出てくる俳優のようでもあり、カッコ良かった。たとえその後に「あの、店内は禁煙です」と従業員の人に怒られてそそくさと携帯灰皿でタバコを消して悲しげな目線を僕に寄越そうと、その先輩の言うことならば信用できるような気がした。
「あ、さっきの話だけど」
「はい」
お店を出てから先輩が言った。
「あくまでも俺が現役時代の当時のデータ検証だから、今はどうなってるか知らねえよ」
なんだかずるい。
そう思わないでもなかったけど、ボクシング部員だった当時、減量中で足がまわらないからという理由でジムトレーニング後のランニングを確信をもってさぼるその先輩の言うことなら、信用できる気がした。
嘘の369、という言葉がある。
人が数字で嘘をつくとき、決まって3か6か9という数字を入れてしまうらしい。ダイヤル式の金庫や、自転車のチェーンロックにしてもでたらめに数字を回すときも不思議と3か6か9の数字いずれかが入っている、という意味らしい。
ほんとうだろうか。
そもそもそこに0〜9までの選択肢があるとすれば、別にちゃんと計算したわけじゃないけど、それらの数字が入る確率なんて決して小さくはないように思える。
先輩に訊いてみたいな、と思った。
あの先輩であれば、その話を聞いてなんて言うだろうか。
僕が初めてボクシング部の道場に顔を出したとき、分厚いフード付きのウィンドブレーカーを着込みながらアッパーを交えたシャドーボクシングでひたすら汗を流していたあの先輩の言うことなら、信用できる気がした。
また話がそれた。
何もかもは途中の出来事に過ぎないんじゃないか。
そう思えてきたのはごく最近のことだ。
ほんとうに、何もかも、だ。
チェコ出身の作家、ミハル・アイヴァスによればコートのなかで数ヶ月にわたって時間を過ごす兵士たちは、もはや人ではなくコートそのものになってしまう、思考方法もコートと一体化してしまうということだった。
兵士たちにとって自分たちはいつからコートになったのかなんていうきっちりとした「はじまり」は存在しない。途中から彼らはいつの間にかコートになり、考えることといえばどこそこの街に吹く風の種類についてのことばかりになってしまうのかもしれない。
ほんとうにそうなのだろうか。
果たしてほんとうにそうなのだろうか。
また先輩に訊いてみたくなった。でもその気力が不思議と湧いてこなかったのも事実だ。
So tired…
言葉はそこで途切れた。
(第35回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月6日と24日に更新されます。
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