「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
・序文
世界では今、手紙が大流行しているといって過言ではないような気がしないでもない。自分も含め、若者は電子メールという形式で日に何通もの手紙のやりとりをしている。
そして手紙の書き方なる教科書もたくさん出版されている。
けれど、それは本当に受け手のことを考えた手紙になっているのか。
一抹の疑問を感じてしまった僕は、このたびあらたに流派を立ち上げることにした。
小松流。
以下に書き連ねたことは、それら従来より存在する教本の手法とはすこし異なっているかもしれないけど、だからこそ、残しておくべきだと感じて、今ここに証明するに至。
小松流開祖、小松剛生より
・その1 文字を美しく書かない
だいたいが手紙というものは書かれてある文字が美しいものを想像してしまいがちだけど、実際に美しい文字の連なった手紙が届いたとしたら、あなたはそれをどう思うだろうか。
僕のようなひがみ根性丸出しの人間は、そんな手紙を受け取ってしまったが最後「ああ、あの人はなんて美しい字を書く人なんだ、それに比べて自分は」と、落ち込んでしまうに違いない。
なので、そういった事態をさけるべく、極力、字は汚く書くこと。
ただし判別できない、もしくは判別に苦労しそうな雑な字を書いてしまうと、それはそれで読み手に負担をかけてしまうので、汚いながらも相手が読みやすい字を書くことが理想である。
受け取ったひとが「ああこの人はなんて字が汚いんだろうきゃきゃきゃ」と笑ってくれるような字を書くことこそ、本来の手紙たる「美しさ」であると、僕は信じる。
・その2 漢字はときどき間違えて書く
世の中でいちばんつまらない、もしくはそれに勝るとも劣らない退屈なものとは「完璧」なものであると言える。
1文字も誤字のない手紙はそれに類する退屈さがある。
ここは少しでも相手に自分のかわいらしさをアピールすべく、ときどき漢字を間違えてみよう。
例えば「琢」と書くところを「豚」と書いてみせたりして、「あれ、この人はいつの間に文書の中に豚を飼っていたのかしらきゃきゃきゃ」と笑ってもらえることこそ、手紙の書き手にとっての喜びであるにちがいない。
すこしおまぬけな漢字間違いのあるほうが、受け手は憶えていてくれるかもしれない。
くれぐれも、すべてを正確に書かないことだ。
・その3 定型文を書いてはいけない
あなたがこれまでにもらった手紙にも「蝉の声も遠くなり、秋の足音を感じ始める今日この頃」などといった時候のあいさつであったり、それこそ「拝啓」「敬具」でくくられていたりしたものがあっただろうが、果たしてあなた自身はそれらが記憶に残っているだろうか。
少なくとも僕はそんな手紙は読み終わった2秒後には忘れてしまうし、何も残りはしない。もちろん世にはそういった「忘れるることこそ美しさ」という考えもあるかもしれないけど、小松流はちがう。
小松流の教えは。決してそういった定型文的なものを書かないようにするべきというものだ。
さて、時候のあいさつなどを書かないとなると、あなたは「じゃあ冒頭に何を書いたらいいの?」と疑問に思うこともあるだろう。
小松流の要点はそこにある。
つまり、定型文を書くのではなく、その時々に応じてあいさつひとつにも工夫を凝らして書くべきだというのが小松流なのだ。
僕はだいたい冒頭のあいさつにはくしゃみをすることにしている。
いきなり「くしゅん」などと書かれた日には、もらった相手は訝しむこともあるかもしれないが、人によっては「ああこの人は風邪を引いているんだな」と心配してくれることだってあるかもしれない。
文中に何匹の豚を飼っていようと、その他の雑事も「それならばしかたない」と許してくれる可能性だってある。そのためにもきちっとした挨拶、その他定型文は書かないに超したことはない。
・その4 大切なこと、内容のあることは書かない
もしあなたが手紙で大切な連絡をしようと思うのなら、それは小松流に反することになる。
絶対に伝えなければいけない即時的な連絡事項は、電子メールやSNSにおけるダイレクトメールなどの、送った本人にも履歴の残るような手法が現代にはいくらでもあるので、そちらを使うべきだろう。
小松流は紙媒体を使った葉書や封書を前提とした手紙の書き方を指示する流派である。
つまり、わざわざ紙媒体によって相手に手紙を送るというのであれば、内容のあるものを送ってはいけない。読んでも読まなくてもどうでもいいようなものを送ることこそ、小松流の本質である。
その心は、受け取った相手に「ああ読まなくちゃ」という義務感を背負わせないことに本質がある。
相手が「読みたいときに読もう」と思えるような、なんていうか、くだらない、とるに足らないことを書くことこそ小松流と僕は呼んでいる。
ほんとに何でもいいのだ。
それこそ豚の飼育法を調べて書き連ねることでもかまわない。
ゾンビに襲われたときの対処法や、バスの降車ボタンに関する前衛的な考察を書いてもいい。それを読んだ相手には「この人はいったいわたしに何を言いたいのだろうきゃきゃきゃ」と笑ってもらえるにちがいない。
・その5 返事は相手が忘れたころに出す
もしあなたが誰かから手紙を受け取ったときは、すぐに返事を書いてはいけない。
1日と待たずに返事を書いてしまったとしたら、今度は相手が「ああ、わたしもすぐに返事を書かなきゃ」といつまで絶っても終わらないシーソーゲームに突入し、ただただ義務感を背負うばかりの文通になってしまう可能性さえある。
小松流の根本的な考え方として、なるべく相手に重荷を背負わせない、というものがある。
あなたはすこしばかりぐうたらになる必要がある。
兼ねてより秘めた怠け心を遺憾なく発揮して、返事は時間が経ったころに書くべきだ。そうすれば返事を受け取った相手がそのとき忙しくとも「まあ向こうもすぐに送ってこなかったし、多少はね?」と、自分の都合に合わせるゆとりを生むことだってあり得る。
それに、忘れた頃にもらう手紙というのは意外と良いものだということも、僕自身の経験によって証明できることも加えておこう。
・その6 その1からその5までの教えをぜんぶ忘れるべき
今までさんざん書いてきたけれども、何よりも大事なのはそれらの「決まり事」をただ守るのではなく、果たしてそれが今から送る相手にとって本当に適切な処置なのかどうかを、あなた自身考えてみるべきだ。
もし適切でないのなら、5つの教えを守る必要なんてこれっぽっちもない。それはそれで、小松流の根幹の教えと合致する。
大切なのは、あなたが自分のために手紙を書くのではなく、相手のために手紙を書くということにあり、且つ相手にはさも自分のために書いたような手紙の体裁をとる、それこそ小松流の真髄であると、僕はここで断言する。
何よりも、あなたは自分が正しいと思った方法で手紙を送るべきだ。
豚は僕が飼う。
すべての手紙に豚が生息する必要なんて、これっぽちもない。
おわり
(第37回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月5日と17日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■