* 安井浩司俳句作品原文にあるルビは、漢字の後に( )で表記してあります。
■ 『青年経』 昭和三十八年(一九六三年)より ■
渚で鳴る巻貝有機質は死して
鳥墜ちて青野に伏せり重き脳
零落の馬遠近に桃匂う
雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う
花野わが棒ひと振りの鬼割らる
ある沖へ魚より低く神社出づ
■ 『赤内楽』 昭和四十二年(一九六七年)より ■
十字に遂げる霧の蛇この両端よ
ふるさとの山そこに羊水を保つ
旅人へ告ぐたんすにスルメの頭(かしら)
■ 『中止観』 昭和四十六年(一九七一年)より ■
キセルの火中止(エポケ)を図れる旅人よ
椿の花いきなり数を廃棄せり
死ねずみへ手の偶然を投げるべき
姉よ巨きはえとりたけに空みえず
■ 『阿父学』 昭和四十九年(一九七四年)より ■
大鶫ふところの毬の中(あた)るべし
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
姉の手のけむりたけの刹那かも
旅人よみえたる二階の灰かぐら
阿母をみるにせあかしやに眼ひとつ
御燈明ここに小川の始まれり
翁二人がすれちがうとき黒牡丹
法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな
野鼠も正午(ひる)を過ぎればみな僧侶
■ 『密母集』 昭和五十四年(一九七九年)より ■
遠い煙が白瓜抱いて昇るらん
藤の実に少しみえたるけさの我
睡蓮や僧侶はうすき膜である
藪入やわが「蛇」の字のかけじくに
性愛の黒竹の葉は踏まれけり
老い母をふかく天より覗く鳶
昼しんかんと悪をみせる大孔雀
愛染のさそりをくるむ春の寺
■ 『牛尾心抄』 昭和五十六年(一九八一年)より ■
母とあゆむ韃靼蕎麦に日当たれり
楽(がく)人植えるアスパラガスを田園に
燈心草にあらゆる今日の牛の声
葛城山の山葡萄言語せざれども
たましいの銀夏(ぎんか)地方に牛消えて
■ 『霊果』 昭和五十七年(一九八二年)より ■
稲の世を巨人は三歩で踏み越える
山猫はとぶ蓮の破(は)の夕にて
朝鮮の友にささげる鶴の吸物
野紺菊耕衣ばかりが残らんと
涯に出会う種蒔き人と刈る人と
子も見たか藤棚を波光る霊
■ 『乾坤』 昭和五十八年(一九八三年)より ■
睡蓮や内なる人のみ戸を開く
藪原に妙喜天と遊ぶ静けさ
さえずりや鎧は泉の中に在り
少年が左(ゆん)手にもてば蓮の過去
深淵を叡智は鱒の渦と去る
たらの芽のやまどりも魂の難解へ
青鷺の辺の文明は深く啄(つ)かれて
放たれて妙高の山へ去る鱒ぞ
■ 『汎人』 昭和五十九年(一九八四年)より ■
睡蓮やふと日月は食しあう
玻璃蝶や階の無き塔がある
天蓋は吊り上げられて早稲の花
家書ひらく鬼の一毛現われる
■ 『汝と我』 昭和六十三年(一九八八年)より ■
静歌(しずうた)やふと空中をゆく藤の蔓
劫に近きむらさきしめじの三四本
玫瑰や海のひびきは海野より
一牛を揺らし二物を見るひるま
寂しさに高柳(こうりゅう)の蟬奏でんや
めかるかやおかるかや言立つる山
魚二匹互いに呑みあい失せる春
百日紅散りにけりわが一行書
土器ひとつ置けば夏風曲がりけり
汝も我もみえず大鋸(おが)押し合うや
紅の花ふと大正午が坐りおる
有耶無耶の関ふりむけば汝と我
■ 『風餐』 平成四年(一九九二年)より ■
春海に入れたる足(あ)裏の一眼や
空ふかく靴下留に垂れる蝶
汝は遂に小川を頭に捲き上げし
■ 『四大にあらず』 平成十年(一九九八年)より ■
冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ
鶸湧くや異木ふたつの十文字
伊勢蝦の胸さぐらんや天の川
大巡礼のふと喉にあり昼の月
睡蓮や遠く幽かな音を観る
名附けがたき一物春の空に在り
縦形の眼(まなこ)もみるや天の川
近江海なかしみの雁食う女
恐らくは孔(クレーター)に冬釣る一人
冬の婚礼むらさきの鳩を食う静か
野の蛇の交差するとき上下すや
二月生まれてすぐ与えられる懺悔服
谷かぜに独活の幼霊立ちにけり
連理草原簿に浅くはさむ幼年
沖の新月微毒へ蓬を供えけり
石尊は坐れる遙かに鯛くらし
おゝ紅葉乙(おと)の面して参ろうぞ
生垣を蛇は越えて創世のあなた
夏荻や開けば国家閉じれば屋
継体天皇筵に横たう夏の草
日輪の脚垂らしゆく冬の藪
高つ原や巫鳥(しとど)吹かるゝ草の中
睡蓮や四空は膨張しつつあり
枯いらくさに遊べ日体も月体も
壺は口を吐く荒誕の桃ひとつ
■ 『句篇』 平成十五年(二〇〇三年)より ■
乳頭山の春より現れ始むべし
月光や遙かの着物に鬼入せり
睡蓮や思いの以下は水書にて
牛の背に二人童(わらんべ)抱き合う春
東日流海父(おや)の岬を出しにけり
夏経(げきょう)この青紙の海燃やしける
秋田縣仙北郡雲然(くもしかり)村鷹の恋
椿の夜めつむり歩くは言(こと)配り
瓢箪を蹴れば空国(からくに)ひびきけり
欝然と山毛欅林に入る創造よ
鳥海山から来る乱声(らんじょう)の春初め
物焚けば雉子逆しまに北の深さ
野雉子炎ゆマーラー然とする日こそ
月光やふと他家の扉(と)を押してみる
万物は去りゆけどまた青物屋
■ 『空なる芭蕉』 平成二十二年(二〇一〇年)より ■
花野帰りの妻に神の薄手跡
眉波の女坐れる池の秋
鷹一羽かけじくを翔つ海の宿
日月燈明仏のあぐらや葱の花
密陀(みだ)絵成るこの身体の内壁に
月光や漂う宇宙母あおむけに
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■