やすらぎの郷
テレビ朝日
毎週月~金曜日 昼12:30~50分
この手があったか、という豪華キャストドラマである。昼の帯だから、あの『あまちゃん』のシルバー版のようでもある。豪華さはずっと上回るが、その豪華キャストのかつての文脈を知る視聴者に、それを脱構築して見せているという意味で、同じくポストモダン的なドラマでもある。
浅丘ルリ子、有馬稲子、加賀まりこ、五月みどりに八千草薫。この大女優たちが一本のドラマで一度に見られるとは、お得感はハンパない。が、そのお得感を実感できるのは、確かに一定の年齢層にかぎられよう。かぎられようが、そこを確実につかんでしまえば、ドラマは大成功だ。テレビとはそういうもので、そこでのつかみ方、共感を得る型としては、そんなに深くある必要はない。
深くないからこそ、幅広く爽やかな共感を得る、ということもある。昼帯であるからには朝の連ドラと同じように日々いろいろな、しかしさもないことが起きる。それらは取るに足りなくて、観るそばから忘れていってしまう。このドラマについては、そうであればあるほどいいのだ、と言える。感動やドラマチックなエピソード、登場人物の演説やなんかはない方が、あっても翌日には忘れたいものだ。
それは、老いというのはそういうものだからだ。なんのことはない日々の積み重ねが老いであって、それを捉えようとするならドラマはあってはならない。ただ一方で、それら一つ一つの出来事を事件として心を騒がせる、というのもまた年齢には左右されることなく人の真実である。
やすらぐことのない、けれどもそれを求める切実もあり、矛盾した衝動もありという裏腹なあり様の象徴としての『やすらぎの郷』。そこはテレビ人に限定された高齢者のための施設であり、女優や脚本家はかつての姿を当然、引きずっている。引きずりながら人の普遍としての老いに向かう。そこは特殊な施設でありながら、老いのかたちは一般的、普通の人々と変わるところはない。
あらゆる人は特殊な状況を抱えているのであって、それをどんなものでも避けようとするのは単なる迎合だ。一般大衆、などという存在はいまや死に絶え、いや昔からいたためしはないのだ。ただ若年層向けドラマで芸能界やファッション業界を描くというのは、時代の雰囲気としてはアウトではないだろうか。皆がネットで主人公で、そんなに素直にスターに憧れたりもせず、だから脱構築するしかない。
『やすらぎの郷』は企画ですでに狙いが伝わり、上手くいくに決まっている、というドラマだ。その成功はテレビ業界をテレビが描くときに現在、必然として要求される脱構築そのものに対し、老いという普遍的な意味を持たせたことにある。そして時間軸だけが可能にした豪華キャスト、でもある。
視聴者が愉しんで観られるのは、その意味を出演者のすべてが十分に理解しているから、そのことを前提として共有し得る、世代の共感によるだろう。虚実が入り混じる際にあらわれる想いの揺れ、重層化した表情に、出演者と視聴者が互いにいたずらっぽく眼くばせしているような気がする。
田山了一
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