『女校怪談』Whispering Corridors
1998年(韓国)
監督:パク・キヒョン
脚本:イン・ジョンオク
キャスト:
イ・ミヨン
キム・ギュリ
チェ・セヨン
パク・ジニ
ユン・ジヘ
上映時間:105分
■韓国製ホラー映画■
『女優霊』(95)や『リング』(98)の登場によって日本のホラー映画が変革を示したように、90年代の後半から韓国のホラー映画もJホラーの影響を受けて躍進してきたと言われている。中でも本作『女校怪談』はコリアン・ホラー・ブームの火付け役であり、その後も『女校怪談』シリーズとして『少女たちの遺言』Memento Mori(99)、『狐怪談』Wishing Stairs(03)、『ヴォイス』Voice(05)、『女校怪談5 心中』A Blood Pledge(09)といった5作品が現在までシリーズ化されている。
シリーズを通して舞台は常に女子校であり、学校内で渦巻く噂や怪談が女子生徒(ほとんどがレズビアン)の人間関係を崩壊させ、破滅的で殺人的な展開を見せるのが通例。第一作目となる本作は、ある女教師の謎めいた死から始まり、学校内に潜む幽霊が教師を惨殺していく展開を見せながら女子生徒たちの人間関係の闇を描いていく。ラストでは謎が全て解けて幽霊も昇天していくという感動的な終焉を見せる作品だ。
だが、そのような感動的エンディングは、95年に日本で製作され大ヒットとなった『学校の怪談』(95)を模倣していると頻繁に揶揄されてきた。たしかにアイディアの部分で拝借している点は否めない。だが、そもそも『学校の怪談』は、ホラー映画というよりも子供たちが大冒険を繰り広げるジュブナイル映画であり、韓国版『学校の怪談』と批判される本作は、女子校に通う女子生徒たちの苦悩と哀しみをホラーに絡めた純粋な学園ホラーであって、『学校の怪談』とは明らかに別物の主題を抱えた作品ではないだろうか。こうした本作の奥深き主題は、脚本上によって強調された登場人物の関係性に見えてくる。
■強制された従属社会の恐怖■
日本で製作されたジュブナイル映画『学校の怪談』に登場する教師は、優しくて明るく、常に生徒を守り、勇気づけ、時に生徒と一緒に逃げまどうチャーミングで模倣的な存在として描かれていた。それに対し、本作『女校怪談』では、教師が子供たちに強烈な体罰を行い、徹底して彼女たちを抑圧する。
とりわけ生徒たちに「MAD DOG(狂犬)」と呼ばれている男性教諭が象徴的だ。彼は女性教諭の自殺を隠ぺいすることに徹し、彼女たちを徹底して抑圧する。机の上に跪く程度の体罰は、出席簿で叩くことに変わり、仕舞いには絵を描くことに生きがいを見出した主人公の女子生徒の前で、絵を叩き壊し、彼女を思いっきりひっぱたく!吹き飛ばされる彼女の姿はカット割りなしで描かれ、周りの生徒たちの悲鳴が響き渡る。おまけに彼は彼女を魔女扱いし、「死ね!死ね!死ね!」と腹を蹴り続けるのだ。
こうした先生から生徒への暴力行為は、日本の学園ホラー『死にぞこないの青』(07)のような先生+同級生による個人へのイジメ(集団―個人)の関係性とは明らかに異なっていると言えるだろう。本作で展開する暴力行為は、教師たちによる絶対的な圧力のイジメ(教師という集団―生徒という集団)であり、韓国の学校教育において強制される強烈な従属社会を暴露したものではないだろうか。
では本作が徹底して強調する「従属社会における暴力」は恐怖表現とどのような関係にあるのだろうか。最も重要なのは、そうした恐怖と主題の関連性であろう。だが本作は期待を裏切ることなく、オープニングから展開するミステリー「なぜ学校内にいる幽霊は、教師を惨殺するのか?」という幽霊の正体と結び付けられているから巧い。学校内に漂う幽霊の正体は、その幽霊と同じ境遇として描かれる「成績優秀者同士の熾烈な争いに苦悩する生徒」の心理描写によって明かされていく。
■縦社会、比較社会の犠牲者たち■
テストの結果をMAD DOGが公表するシーン。テスト結果がクラスで一番の女子生徒を讃えるとMAD DOGは、テスト結果がクラスで二番目の女子生徒を執拗になじる。彼女の唇が震えているところがバスト・ショットで映され、奥行きのある構図で成績優秀者同士の優越感と劣等感が表現されていた。しかも優秀者の方は明らかな美貌を兼ね備えており、もう一方は根暗で無口、それでいて不細工。そうした表面上の優劣を持たせているだけでなく、旧美術室で罵倒の連続が繰り広げられることからも明白なように、度胸の面で二人には明らかな差異が認められる。
こうした二人の溝をより明瞭にし、暴力へと掻き立てるのは、他でもない学校内のシステムそのものだった。自殺をした根暗な女の子に対して生前「負け犬!」と罵倒し、それが彼女との最期の会話になった成績優秀者の女子生徒は、自らの言動を呪いながら自殺した女子生徒との思い出を振り返る。
「私たちは一年生の時はずっと仲良しだった。どんな秘密も二人で共有していたの。先生たちは私たちを比較し始めて、いつ間に離れ離れになった。彼女は、よそよそしくなった…。それからは彼女と関わりを持たなくなった。けれど…私は何も考えなかったの…それでこんなことに…全部、私のせいなの」。
彼女が泣きじゃくりながら話す内容は、強烈な優劣比較社会への批判と読み解くことができるだろう。個性を奪い、競争社会へと埋没させ、私語や流言飛語を抑圧させる学校教育の徹底した管理社会。そして生徒たちが抱く縦社会へのコンプレックスと抑制的で精神的な暴力への恐怖こそ彼女を自殺へと追いやった根本原因ではないだろうか。
そこで本作は(競争社会の中で自殺した女子生徒のように)過去にも自殺した女子生徒の幽霊が女教師を殺し、MAD DOGを惨殺した背景には、教師を殺して己が生徒として生き続け、友達を作りたいという純粋な願望があったことを明かすのだ。「友達と自由に遊んで楽しい学校生活を送りたい」という幽霊の願望と願望実現の手段として己を抑圧してきた教師(権力者)を殺害するという奇妙な殺戮は、韓国の学校教育に潜む「先輩―後輩、先生―生徒、学力優秀生―学力劣等生という構図に厳しい従属関係を強要すること」に対する異議申し立ての主題として読み解くこともできるだろう。一見すると安っぽいホラー映画にも見えてしまう『女校怪談』は、実のところ「縦社会における権力者の抑圧と暴力を描き、被害者が権力構造に対して復讐をする」という主題を抱えた奥深き社会派ホラーなのである。
■主題論的テキスト■
狂気的なまでに従属関係を強要し、互いに競争させる社会構造への怒りと憎悪が本作の主題であったことは先に述べた。しかし何よりも重要で価値があるのは、本作がそうした抑圧的な暴力への批判を直接的でグロテスクなバイオレンス描写と結び付けながら、暗喩的に、それでいて主題論的に構築していく類稀な恐怖映画であるということだ。
そうした主題の集大成として、ラストでは自殺した根暗な女の子が亡霊となって現れる。彼女もまた自らの心の傷を癒してくれる友達を待ち続けるのだろう。そうした永遠と続く負の連鎖は、学校教育の縦社会の構図が一切変化しておらず、これからも生徒たちが、執拗で抑圧的な暴力に苦しみぬいていき、被害者が生まれること、そして被害者が権力者たちに報復することを暗喩的に物語っていた。
このようにハリウッドのホラー映画とJホラーの要素を融合させつつも社会的主題を盛り込んだ『女校怪談』を筆頭にしたコリアン・ホラーは、人間関係から派生する肉体的な暴力に対する徹底した批判、そして社会文化的な主題に溢れた社会派ホラーとも言うべき作品ではないかと思われる。ここでは他のコリアン・ホラー作品の紹介は割愛するが、2013年にはアリソン・パースとダニエル・マーティンが編集した『Korean Horror Cinema』がアメリカで刊行されるなど『女校怪談』から端を発したコリアン・ホラーがJホラーやイタリアン・ホラーに次ぐ最後の秘境として世界的に注目されつつあることだけは最後に述べておくべき事柄として付け加えておこう。今後のコリアン・ホラーの人気に期待である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■