『桐島、部活やめるってよ』
2012年(日)
監督:吉田大八
脚本:吉田大八、喜安浩平
キャスト:
神木龍之介
橋本愛
大後寿々花
東出昌大
上映時間:103分
とある高校。学年の人気者「桐島」が部活をやめて学校に来なくなった。時間軸と視点を変えて進行する複数のエピソードによって、学校という同じ空間、同じ時間を過ごしているはずの高校生たちに渦巻く抑圧された想いや疑問、不安と懐疑、怒りと哀しみ、そして情熱と現実が炙り出されていく。
第22回小説すばる新人賞を受賞した朝井リョウの同名小説を「映像化」するのではなく、物語展開を大幅に改変することでオリジナリティに溢れた「映画化作品」へと昇華させた本作。『桐島、部活やめるってよ』は「映画特有の表現性」に忠実であったが故に、00年代以降の日本映画を代表する傑作となった。では本作が魅せた「映画特有の表現性」とは何だろうか。その答えは決して一言では語れない多方面の演出に垣間見ることができるだろう。その一つとして視線による心理表現が挙げられる。
■恋の視線■
テレビドラマと映画の根本的な違いは、テレビドラマが往々にしてアイロンや食器洗いをしながらでも視聴者が人物の心理や行動を理解できるように製作されているという点にある。逆に映画は、観客が映画館でスクリーンに注視しながら観ることを前提にしているため、ワンショットにおける人物の些細な表情や視線に曖昧な心理を表現することが可能となる。そうした映画ならではとも言える些細な心理表現のマスターショットは、吹奏楽部の女の子が前の席に座る男子を見つめるシーンに現れていた。
何気なく前の席の男子を見つめる女の子。窓際に座る彼女たちの顔は暖かな冬の陽光に照らされている。ふと窓の外を見つめる男子の表情が彼女のPOV(視点)ショットによって映しだされる。そこで静かな無音に包まれ、観客も思わず息をのむ。それは彼女が見つめた恋の視線であり、恋した乙女のPOVに他ならず、観客は彼女の静かな視点を通して彼女の恋心を味わうだろう。そして次のショットでは、彼女たちを全体的に映した引きのショットとなり、窓の外を見つめる二人の後ろ姿が陽光に包まれ、無音で時間が引き伸ばされていく。一切の台詞なしに彼女の輝かしい恋心を視覚的に表現してしまう本シーンは、ただのストーリーテリング(話を語ること)の「描写」ではなく、恋心の「表現」であり、「映画特有の表現性」と言えるだろう。
また好きな男子に気付いてもらおうとして屋上で演奏(極力控えめな自己アピール)をする彼女がバスケをしている男子を横目で見つめる視線は、願望と拒絶が同居する恋の矛盾を表現し、メトロノームを横にして吹奏楽の部員たちに指示をする彼女の虚ろな眼差しは、部長として吹奏楽に集中しようとするが恋に惑わされる乙女の葛藤を滲ませる。そうした曖昧で繊細な視線と彼女の表情。引き伸ばされる時間とカメラが収めた瞬間の美(陽光の輝きであり、ほとんど意図的で再現不可能な俳優のパフォーマンス性)。それらが折り重なるとき、本作は原作の存在を忘れさせ、映画であることを忘れさせ、己の年齢と性別を越境し、映画特有のマジックで観客を魅了するのではないだろうか。そうした流動的で不可逆的な映画体験として知覚される俳優のパフォーマンス性は、神木龍之介演じる映画部の前田にも表現されている。
例えば彼が学校内のヒエラルキーにおいて下に属していることを象徴するかのようなサッカーでの空振り。下に属していることを自覚したくないかのように、さり気なくサッカーに参加している意思を示す「手を叩く仕草」。吹奏楽の女子に交渉という名の勝負を挑む滑稽な論理攻めの際の表情など、ユーモラスに彩られた身体表現は枚挙に暇がない。
このようなパフォーマンスは、彼・彼女にキャラクター性を持たせて観客を魅了するだけでなく、言葉では決して語ることができない複雑で矛盾した人間の心理を雄弁に語らせてしまう役割があると言えるだろう。本作は前者と後者の役割を十二分に果たし、スクリーンに映し出された俳優の表情や仕草、言動によって思春期特有の心理(繊細で曖昧で矛盾だらけの想い)を想像的に表現していたように思われる。このような細部に至るまで終始崩れることのないナチュラルで共感に溢れた演技は、吉田大八監督のアドリブのない徹底した演技指導の賜物であることは言うまでもない。だが吉田監督も自負する「俳優の魅力」は、実のところラストにおける(原作にはない)映画的グランド・フィナーレのためにあったと言って良いだろう。
■散りばめられた人間ドラマ、そして…■
群像劇によって様々な人物を描くと、しばしば観客は混乱し一人ひとりの葛藤や想いを濃厚に堪能できないものだ。そのためほとんどの群像劇は、一人の人物を軸にして描いてきたが、本作はそうした青春群像劇の課題を時間軸や視点を交差させることによって異なったヒエラルキーに属する高校生たちの心理を(パフォーマンス性で彩りながらユーモアと葛藤を交えて)重厚に描くことに成功していたように思える。
例えばそれは、桐島の失踪によって怒り乱れる恋人の梨沙であり、バレーボール部の副キャプテンであり、桐島の代理として指名されたにも関わらず実力が伴わずに重圧で押し潰されそうになるリベロの風助である。そんな風助に共感しながらも、バドミントンの全国大会に出場した姉の幻影に囚われる宮部実果。親友である実果の気持ちを察しながらも実果や風助をバカにする帰宅部の女子に何も言えないかすみ。映画部の監督であり、映画に対して人一倍の情熱と愛を注ぐ前田。イケメンで万能であるが故に何一つ情熱を傾けることができずに孤独となる宏樹。
吉田監督のトリッキーな脚本術と細かな演出によって造形化され共感溢れる愛すべき登場人物たち。それまで〝一本の糸〟でしかなかった彼らは、「桐島失踪」によって引き起こされた葛藤や苦悩、怒りや哀しみを清算するために桐島がいるはずの屋上へと疾走することによって結ばれ、絡み合い、集結する。この怒涛のラスト・シークエンスは、吹奏楽の大会が迫っているにも関わらず叶わない恋に夢中になってしまう女子が奏でる壮大なメロディと共に描かれ、テンポの速いカッティングで魅せていき、映画特有の表現性で劇的なダイナミズムを構成していた。そうした躍動的で怒涛のダイナミズムは、彼らの重厚な葛藤ややり場のない怒り、哀しみ、空しさ、情熱そのものであり、青春を生きる高校生たちの壮大な心理表現と言えるだろう。
すなわちトリッキーな脚本構成とユーモアにあふれた俳優の演技によって編み出された複数の人間ドラマは、集大成とも言うべきグランド・フィナーレのために構成された一要素にすぎず、タランティーノの『パルプ・フィクション』のように可笑しな驚きとして時間軸や視点を変えるのではなく、ラスト・シークエンスの集大成的な〝集結〟を劇的化するための重要な要素として機能しているということだ。
そうした壮大な心理描写、あるいはエモーションを引き起こすドラマティックで緊張感に溢れた躍動感を生み出す方法論としてトリッキーな脚本術が用いられている点に本作の巧妙さがあるのだと思う。
■ヒエラルキーの革命■
また屋上に集結する彼らを見透かしていたのはヒエラルキーの中でも最下位に属する映画部たちであったから素晴らしい。なぜなら映画部と吹奏楽部の女の子以外は、みんな桐島の存在に振り回され、芯を持っていないのだから。そうした芯のなさは、「俺たち、なんのためにバスケしてんだろ?」という疑問や彼らのやり場のない憤りを見れば明らかだ。彼らは、唯一情熱を燃やす映画部の「隕石」を蹴飛し、情熱に溢れたゾンビの撮影を邪魔する。
だから情熱を無視し、自分たちの問題が(たかが「桐島失踪」ということだけなのだが)何よりも重要だと思っている身勝手で馬鹿げた彼らに対し、前田は「おかしいのはお前らの方だ!!」と反逆するのである。そして彼はカメラという武器によって「撮影者と被写体」という関係性で彼らを拘束し、映画世界の中で学校内格差を逆転させる。彼が幻視したゾンビの血なまぐさい襲撃は、ヒエラルキーの革命であり、抑圧された感情を交えた願望実現に他ならない。
ヒエラルキーで下に属し、桐島失踪に振り回されることなく、自らの情熱に実直となり邁進する前田の姿を目の当たりにした(ヒエラルキーの中でもトップに位置する)宏樹は、前田から何かを見つけようと彼にインタビューをする。前田を熱い情熱に傾向させるものとは何なのか。希望なのか。夢なのか。だがインタビューをすると前田は映画監督になれるとは思っていないことを明かす。彼は自己の世界に心酔する喜びに情熱を傾けていると語り、今度は逆に宏樹自身がインタビューされ「カッコいいね」と言われた時、宏樹は万能故の孤独に気付かされる。己の情熱のなさと孤独を最も情熱溢れる前田に見透かされそうになり、「俺は…やめてくれ」と涙を流すのだ。そして彼は、半ば投げ捨てた野球部の練習を見つめるのである。
そうした劇的でありながらも静かな終焉は、宏樹の微かな希望を創ると同時に、彼らが互いに影響を及ぼし合っていること、互いのことを何一つ知らないこと、何事も解決せずに己の世界で溜まったフラストレーションを互いとの関係性の中で爆発させている学校内サイクルをも物語っているようであった。つまり、そうした一見無駄に思える発散のお祭りが繰り返される日常こそ学校なのであり、高校生たちにとって解決なき発散は重要な出来事ではないのか、という真実である。
「僕らは戦うしかない。僕らは、この世界で生きていくしかないのだ」と前田が台本を見つめながら呟くように、本作は学校という閉ざされた社会の中で未熟ながらも葛藤し、苦悩し、何かを見つけようと突っ走る高校生たちのリアルを「映画特有の表現性」によって美しく、ユーモアラスかつ劇的に表現した傑作ではなかろうか。「映画特有の表現性」とは、俳優のパフォーマンスをカメラに収めてスクリーンに投影し、映画体験へと昇華させる一連の「フレーム芸術」であり、ラストへと集結させる「映像と音響の濁流」、そしてカメラによって幻視やヒエラルキー崩壊のドラマを構築する「メタ・シネマ的主題」であることは言うまでもない。原作の存在など一切なかったように、「映画特有の表現性」によって観客を魅了し、映画的なる怒涛の103分を体感させる本作は、日本映画屈指の傑作であった。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■