孤独のグルメ Season6
テレビ東京
金曜日 深夜0時12分~
待望の Season 6 である。まったく変わらぬ常同性。水戸黄門もかくやと思うが、待望していたのは意外と若い世代である。それはどういうわけかとツラツラ考えるに、どうもこの番組のドキュメント性にあるのではないかと思い至った。身体の動く元気な若い世代なら、主人公の行った店に自ら出かけ、ドラマをリアルになぞることができる。なぞれないようなドラマティックな出来事は、もとより起きない。
それは常同性とは相反する魅力で、いわばテレビの中に入り込むとか、テレビが外に飛び出してきたような錯覚を与える。ポケモンGO みたいなものでもある。もちろんテレビを観て来たと思われるのはこっ恥ずかしいから、たまたまみたいなさり気なさを装うというゲームもできる。
そしてまあ実際、出てくるのはどこにでもありそうな店だ。コンセプトを練られて、マーケティングもばっちりな高級店、有名店というのはなくて、地元で愛されてるふうである。これにさり気なく偶然入った様子を装うことの自然さと難しさがあって、高度な技術を要するといえば要する。
それで、その店に実際行ってみよう、というのは主人公と同世代以上のオジサンたちには思いもよらないだろう、という気がする。すなわちオジサンたちは、そこまでヒマではない。そもそもこういうドラマを観てない気がする。ナニが面白くて、と思うんじゃないか。ただ、あーいっつも同じ店行くのやめよーかな、という反省はするかもしれない。そういうリアルはある。
それでその面白くもないオジサンたちの常同性を面白く思って眺める層が、新シリーズを熱く待望していたわけで、そこに変化はあってはならない。行く店が豪華になったり、ときどき女連れになったり(そもそも「孤独」ではなくなる)など論外だ。しかし地方ロケ、海外ロケはいい。
地方や海外ロケに予算は多少かかるし、そもそもテレビ東京のドラマなんだから、東京に何万とある店に行っていればいいようなものだ。それでも地方や海外ロケが、あくまで時折、めったにないのが望ましいのだけれど、あっていいのは、それが普段と少しも変わらないからだ。
矛盾しているようだが、皿の中はどこも一緒だ。食べるのも一人なら、それを腹におさめる光景も変わりはしない。周りの風景が多少異なり、注文する言葉に苦労するぐらいで、それは多かれ少なかれ初めての店なら経験することだ。東京は広い。めったに行かないところだったら都内も地方と変わらないし、閉じたカルチャーを形成している常連の店なら自分は異邦人だ。
すなわち主人公を「孤独」たらしめているのは、連れがいないということではない。そこが初めての店、それも行き当たりばったりに選んだところだ、ということだ。オジサンたちが自省すべきは、だからこの一点にかかる。オジサンもまた、オバサンや高校生の群れと同様、孤独に耐え得るとはかぎらない。酒はしばしば仲間を求め、弛緩した精神は常連となりたがる。だが新たな経験と向上をもたらすのは「孤独」だけだ。
山際恭子
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