『先生を流産させる会』2011年(日)
監督・脚本:内藤瑛亮
キャスト:
宮田亜紀
小林香織
高良弥夢
竹森菜々瀬
相場涼乃
室賀砂和希
上映時間:62分
2009年、先生を流産させるために、生徒が先生の給食に異物を混入させるという事件が起きた。実際に起きたこの事件をもとに製作されたのが内藤瑛亮監督の『先生を流産させる会』。
本作はタイトルだけでインパクトがあり、一見するとタイトルやアイディアで勝負し、成功をおさめた作品のように思えるが、真の魅力はもっと根本的で純粋な側面、すなわち巧妙で繊細な映画表現にあるのではないだろうか。すなわち脚本と映像音響表現である。本作の女子生徒たちは、自らの心境を語らず、思考を放棄し、感情の赴くままに行動をする。だがそうした無言の空気が、彼女たちの心境を雄弁に語り、本作を映画的ドラマへと昇華させているように思えた。もはやそうした俳優のパフォーマンス性と沈黙の演出は、「先生を流産させる会」というタイトルのインパクトや低予算であることを忘れさせ、ひたすら観客をスクリーンに釘づけにさせてくれるだろう。では一体彼女たちの一挙一動、沈黙の空気はどのように演出され、どのようにドラマは構築されていったのだろうか。
■沈黙の美学■
オープニングは忌まわしいほどに女子中学生5人の空気を映画的に(映画でしか表現できない手法によって)掴んでいて魅惑的である。ウサギ小屋の中にいる赤ちゃんウサギを見つめる5人の女の子。一人が無言でウサギ小屋に入り、ウサギの子供を鷲掴みにする。カメラはそのままロング・ショットで映し出し、彼女は滑り台のてっぺんに上っていく。すると彼女はウサギを天に向かって放り投げるのだ。地面に叩きつけられて潰れた生音だけが響きわたる。他の女の子は顔をそむけるわけでもなく、彼女を制止させるわけでもなく、ただ彼女の行動を見つめる。そして笑い声だけが響くのだ。
ここで注目すべきはカメラのロング・ショットであり、心境を明かさない美だ。彼女たちが一体何を考えているのか観客にはわからないように演出されているから、我々は彼女たちの少ない台詞やロング・ショットで映し出された不明瞭で些細な行動に目を凝らし、そこから何かを読み取ろうとする。そうした観客参加型の心理表現は、彼女たちの空気をより明確に把握するうえで的確かつ重要な表現であるように思われる。
「空気を読む」という言葉が一般的となっている今日において、そうした沈黙の表現は適切だったのではないだろうか。もし彼女たちが雄弁に悪態の理由や非倫理的な行為の動機、あるいは不満を暴露するようなものであれば、本作はただの「インパクトのある作品」として流れていただろう。本作では彼女たちの言動の理由を一切明かさない代わりに、「先生を流産させる」というイジメに走っていく彼女たちの空気感を巧みに表現し、そうした沈黙の美学によって観客を引き込んでいったように思える。
例えばこうしたやりとりに注目してほしい。リーダー格の女の子が「サワコ先生ってセックスしたんだよ?キモくない?」と述べるシーン。他の女の子はしばらく沈黙を続け「わかる……なんかキモいよね…」と呟く。すると横にいた子も「うん…なんかキモい」と静かに応答する。こうした彼女たちの述べていることには一切論理的整合性がなく、その場の思い付きや適当な感情にゆだねられている。サワコ先生は妊娠することについて「どうしてキモいの?」と尋ねるとリーダー格の女子生徒ミヅキは「知るか!」と答えるし、彼女たち自身も互いの表情をうかがうように、視線だけが動き、空気を読みながら言葉を選んでいることが、先生とのやり取りの中で映し出されていた。
言葉や表情で心理を表現するのではなく、目線や沈黙といった要素で女子中学生の不確かな心理を表現していくことで見えてくる彼女たちの真意。監督自身は、女子中学生に潜む女性嫌悪を表現したと述べているが、少なくとも本作の構造としては、彼女たち自身に「妊娠することへの嫌悪」が宿っているというような構造にはなっていなかったように思われる。なぜなら前述したように、彼女たちは明らかに互いの空気を読んで行動しており、「先生を流産させる会」もいつの間にか彼女たちの空気によって解散していく。プール掃除に誘われて、ミヅキから去っていくシーンは、彼女たちの「もう、やめよう」という言葉を空気として感じさせてくれる傑作シーンであり、彼女たちが差障りのないように空気を読んで行動し、やることなすことに理由なんてないことがロング・ショットによって明白に表現されていたように思われる。
その一方でサワコ先生は彼女たちとは真逆の立場として表現されていた。己の意思を貫き、保護者の圧力に屈せず、彼女たちに対して果敢に挑戦していくし、自分の胎児が殺されたにも関わらず、冷静にしゃべり、冷静にミヅキを教育していく。先生は理性的人間の極致として描かれており、ミヅキは先生の影響のもとで、徐々に「考えること」を学んでいったのではないだろうか。終盤では児童相談所に自らの犯した罪を確認しにいくシーンが映し出される。そこでも彼女がどのように自分の罪を受け止めたのかは語られないが、ラストシーンの彼女の表情を見れば、何かしらの想いを巡らせていることが感じさせられる。
徹底して台詞を削ぎ落とし、思春期の女の子の心境を繊細かつ大胆に魅せていく表現力は、タイトル以上に衝撃的であった。スーパーで籠を駐車場に投げている場面でも警備員は一切叱ることはないし、小さい子供に向かって攻撃してもその母親は無言のままである。言葉を排除したところで見えてくる彼女たちの残虐性と幼稚さ、学び、そして叱ることができない大人たちの脆弱さを感じることができたように思えてならない。
どのようなテーマであれ、どのようなタイトルであれ、結局観客を魅了し続けるのは、映像と音響であり、スクリーンに映しだされた俳優から滲み出るパフォーマンスなのではないだろうか。『先生を流産させる会』は、数々の名作が持っていた映画的な表現力を魅力の一つとした衝撃作であり、国や社会が変わっても観客を魅了し続けるだろう映画的美を持った近年稀に見る秀作である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■