『特別展 古代ギリシャ-時空を超えた旅-』
於・東京国立博物館館
会期=2016/06/21~09/19
入館料=1600円(一般)
カタログ=2800円
古代ギリシャ展は日本でも欧米でも人気の展覧会で、定期的に各地で開催されている。パルテノン神殿などを巡るギリシャ旅行も人気だが、ギリシャを訪れる人々は現代ギリシャには目もくれず、ひたらすら古代に思いをはせる。ギリシャの人たちには申し訳ないが、それはゆえなきことではない。
古代ギリシャと現代ギリシャには明らかな断絶がある。なぜ紀元前七百年頃に恐ろしく高度なギリシャ文明が栄えたのか、その理由は説明できるようで説明しがたいところがある。ギリシャは地中海に面したほんの狭いエリアだ。山がちで肥沃な土地でもない。ペルシャやローマに比べれば小さな共同体であり、紀元前三〇年には強大に膨れあがったローマに完全に飲み込まれた。そしてギリシャ文明は一時歴史から姿を消したのである。
わたしたちは古代ギリシャに民主主義共同体があり哲学が栄えたことを知っている。演劇が盛んに上演され、ポリス同士の戦争の最中でも、一時停戦してオリンピックが行われていたのも周知の通りだ。ギリシャ文明の種子がローマ帝国の広がりとともに伝播し、ヨーロッパ各地で文化が華開いていったのだとは言える。ただヨーロッパがギリシャ文明の姿をある程度正確に知るようになるのは中世に入ってからである。当時のヨーロッパはどの国も絶対君主制の王政だった。紀元前のギリシャ以外で自発的な民主主義共同体が成立したことは、近代に入るまで地球上のどの地域でもない。
もちろんギリシャ文明の発展は、同時代を生きた人々にとってはわたしたちほど謎めいてはいなかったろう。前時代の文化や制度を引き継いで発展し、大きな変化が起こってもいつの間にかそれを吸収して共同体が続いていったのである。しかし三千年近く前に、その後の人類が経験することになる様々な出来事を、ギリシャという狭いエリアの人々が先取りするように体験し、文学や演劇・哲学などでそれを記録していたことは、いたくわたしたちの関心をそそる。
ただ古代ギリシャ世界はあまりにも遠い。ギリシャの金・銀・青銅器、陶器などで人の手から手へと伝えられたいわゆる伝世品はほとんどない。すべて発掘品だと言ってよく、考古学ではよくあることだが、新たな出土があればそれまでの見解が修正されることもしばしばである。文書類も同様で、歴史家や哲学者、劇作家のほんの一部の作品が現在まで伝わっているに過ぎない。全貌は捉えようがないのだ。またギリシャ文化に対しては、ローマを嚆矢とする長い長い歴史的解釈の層がうずたかく積み上がっている。ギリシャ文化とは、わたしたちの解釈の問題でもある。
『スペドス型女性像』
1軀 前2800~2300(初期キュクラデスⅡ期) クフォニシア群島出土か 大理石 高74.3×幅16センチ キュクラデス博物館
ギリシャでは紀元前六〇〇〇年頃から人間が居住し、高い文化を誇っていた。新石器・青銅器時代で文書情報は残っていないが、紀元前三〇〇〇年頃には大きく精巧な石像などを制作できる技術を持っていた。シンプルな形状をした像は「キュクラデス(型像)」と呼ばれる。同系統の作品が大量に出土したからである。立像が多いが座像も確認されている。『スペドス型女性像』はその一つで、恐らく最も大きなキュクラデス像だろう。固い大理石製なので石を切り出す技術はもちろん、像を成形するための鑿などの道具が必要なのは言うまでもない。
常に人間に興味を持ち、神を人間の形で捉えるのがギリシャ文明の大きな特徴だった。これも言うまでもないが、ユダヤ・キリスト・イスラームのセム一神教的神人タイプの原型がギリシャ彫刻にはある。ただキュクラデス像の原初型には彩色が施されていた。衣裳などを身にまとっていた可能性もあるが、それらは失われている。これはほかのギリシャ出土物にも言えることである。ギリシャ彫刻というと、わたしたちはすぐに真っ白な大理石を思い出すが、それらは当初彩色されていた。今の姿よりもずっとけばけばしいものだったのだ。陶器なども同じで、長い年月で彩色が失われ現状のようになった。
このようなギリシャ出土物の経年変化は、ギリシャ文化に対するわたしたちの解釈のあり方を示唆している。当初の姿で残っていない以上、わたしたちはギリシャ文化の諸相を見落としている可能性がある。人間はいつだって目の前にある現物に強い影響を受け、それを元に考えてしまうからだ。ただ装飾は付加的要素だとも言える。経年変化で様々な装飾を削ぎ落としたギリシャ遺物は、その本質だけを今に伝えているとも言えるだろう。
このキュクラデス像は美術家を中心とする現代作家に大きな影響を与えた。ピカソらがその嚆矢だが、現代では陶芸家で彫刻家でもあったハンス・コパーがすぐに思い浮かぶ。コパーのシンプルな陶芸作品はキュクラデス像を理想として造られた。コパーはヨーロッパ文明の原初的な姿をキュクラデスに見出したのである。
ただコパーがキュクラデス像を人間中心に解釈しなかったのは示唆的である。ギリシャ彫刻はキリスト教・ローマを通して人間中心的文化の象徴となってゆくが、二十世紀半ばにはそれが揺らぎ始めていた。人間の形をしているが、コパーはキュクラデスを汎神論的造形として捉えていたのだと言ってよい。それは正しい解釈であり、ギリシャ文化は人間像として析出するイメージの下に、膨大な汎神論的な力の蠢きを秘めている。
キュクラデス諸島は、ギリシャ本土とクレタ島に挟まれた大小二百二十の島から成るエリアである。キュクラデス像のほとんどがこの群島から出土した。美術品としての魅力があるので二十世紀初頭に盛んに盗掘され、発掘場所がわかっている遺物は意外に少ない。ただキュクラデス諸島以外での出土が少ないので、このエリア独自の文化が生み出した像だと言っていい。古代ギリシャでは異なる文化を持つエリアがせめぎ合っていた。
『海洋様式の葡萄酒甕』
1口 前1450年頃(後期ミノスⅠB期) クレタ島、ザクロス宮殿出土 粘土 高53.8×最大径38.5センチ イラクリオン博物館
紀元前三〇〇〇年から一〇〇〇年頃に、ギリシャ最大の島であるクレタ島で海洋文明が栄えた。ミノス文明あるいはクレタ文明と呼ばれる。ミノス文明の名は、クレタ島中央北部のクノッソスに作られた宮殿に由来する。言うまでもなくミノス王の迷宮である。ギリシャ神話はクノッソス宮殿には牛頭人身の怪物・ミノタウロスが住んでいたと伝える。それをギリシャの英雄・テセウスがミノス王の娘・アリアドネ(アリアドネの糸神話)の助けを借りて討伐したのだった。
クノッソス宮殿は前一九〇〇年頃に作られ、前一三〇〇年頃まで六百年近く続いた。実に縦横百六十メートルを超える大宮殿で、発掘調査から、確かに迷宮と呼ばれるような複雑な構造(増改築を繰り返したため)を持っていたことがわかる。また英雄・テセウスのミノタウロス退治は、アリアドネとの婚姻による、ギリシャ本土のミュケナイ文明によるクレタ王朝の併合を示唆している。
クレタ島からは金や青銅器、玉器、フレスコ画など様々な遺物が出土している。古ギリシャ語が書かれた粘土版の出土もある。『海洋様式の葡萄酒甕』は、ミノス文明後期のザクロス宮殿址から出土した甕である。陶体は白っぽい土だが鉄で模様を描いて焼成してある。表面は研磨されているので、わたしたちが見慣れたギリシャ陶器の原初型である。ただ甕には大きな蛸が描かれている。これはギリシャ本土に文明が移ってからはあまり現れない模様で、ミノス文明が航海によって支えられていたことの証左である。
クレタ島の人々は高い航海技術を持ち、王たちは二千年近くに渡ってエーゲ海の制海権を握っていたようだ。クレタ島の遺物に海のイメージを持つものが多く、島では産出しない金や玉石製品が数多く含まれることがそれを表している。今となれば狭いエリアだが、エーゲ海がギリシャの人々にとっての〝世界〟だった。やがてそれは地中海全域に広がり、中東やアフリカ、イタリアなどのヨーロッパエリアとも接触を持つようになる。ある一定の時期(といっても数百年に渡る)に特定エリアで栄えた文明が、異文化と接触することで華々しいギリシャ文明が生まれていったのである。
『アッティカ黒像式皿 武装するアキレウス』
1口 アッティカ工房、リドス画 前540年頃 アッティカ地方、ヴァリ出土か 粘土 高2.5×口径26.8センチ アテネ国立考古学博物館
ギリシャ本土で生まれた紀元前一六〇〇年から一〇〇〇年頃のミュケナイ文明を経て、紀元前九〇〇年から四八〇年頃に幾何学様式~アルカイック時代が到来する。アテネを中心とする汎ギリシャ文明の時代である。紀元前七五〇年から七〇〇年頃に、ホメロスによって叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』が書かれた。前七七六年には第一回オリンピック競技会が開催されたと伝わる。また前五〇八年にはクレイステネスの改革によって民主制が確立された。ギリシャ文明の基礎が形作られた重要な時期である。
『アッティカ黒像式皿 武装するアキレウス』は、次のクラシック時代(前四八〇年~前三二三年)に盛んに焼かれることになるギリシャ陶器の様式を備えている。赤みがかった土の上に鉄釉で絵を描くことが多いが、赤色の陶体の発色を残して鉄釉で覆うこともある。黒像式と赤像式と呼ばれるが、作り方は基本的に同じである。表面を研磨して高温で焼かれている。
ヨーロッパは金属器やガラスの製造は盛んだったが、陶器にはそれほどの執着を示していない。キリスト教ヨーロッパにとってギリシャ文明は基本的に東方異教世界だが、その文化の多くを受け継いでいる。しかし製陶技術はほとんど伝承されなかった。ローマ時代になると早くも下火になり、今のドイツあたりで細々とギリシャ系統の陶器が作られただけで、その伝統はやがて絶えてしまう。初期ギリシャ陶器は祭祀に使われた特別な製品であり、時間と手間をかけて作られたが、なぜギリシャエリアでこれほど高い製陶技術が生まれ、それが受け継がれることなく消滅したのかも謎と言えば謎である。
図の皿には神話上のアキレウスが脛当てをつけているところが描かれている。アキレウスの前に立っているのは母親のテティスで、テティスの後ろに父親のペレウスが、アキレウスの後ろには息子のネオプトレモスが立っている。この皿が作られた頃にはすでにホメロスの『イリアス』が成立していたが、『イリアス』を元に作られたのか、伝承を元に作られたのかはわからない。アキレウスが一般によく知られた英雄だったのは確かだろう。(後編に続く)
鶴山裕司
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