『開館50周年記念特別展 速水御舟の全貌-日本画の破壊と創造-』
於・山種美術館
会期=2016/10/08~12/04
入館料=1200円(一般)
カタログ=2300円
速水御舟は明治以降の近代日本画の中で、最も人気のある作家の一人である。よく知られているように、戦後に御舟作品をコレクションしたのは安宅産業だった。しかしオイルショックの影響などで安宅産業が破綻し、その美術コレクションが売りに出された。安宅英一蒐集の朝鮮陶磁の名品は大阪東洋陶磁美術館に寄贈されたが、御舟作品は山種美術館の山﨑富治が十七億円で買い取った。昭和五十一年(一九七六年)のことである。山種美術館は実業家の山﨑種二蒐集のコレクションを中核とする私設美術館である。竹内栖鳳『斑猫』など日本画の名品を数多く所蔵するが、安宅コレクションの受け入れによって山種の御舟コレクションは世界最大になった。その後も御舟コレクションは増え続けている。
御舟は明治二十七年(一八九四年)に東京浅草で生まれた。父・蒔田良三郎の実家は千葉の醤油醸造業者で、良三郎は浅草区会議員を務め実業貯蓄銀行を創立した人である。後に事業に失敗することになるが、少年時代の御舟の家は比較的裕福だったと言える。
明治も二十年代になると、絵描きを志す子は東京美術学校などで絵を学ぶことが多くなる。しかし御舟は十四歳の時に家の近所にあった松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門した。同時に小茂田青樹にも入門している。楓湖は歴史画で知られる日本画家である。楓湖の画塾は放任主義の自由な雰囲気だったが、塾生たちに徹底した模写を奨励した。御舟は十五歳の時に楓湖から最初の雅号・禾湖をもらっている。またその年、母方の祖母・速水きくの養子となった。
『萌芽』
大正元年(一九一一年) 絹本・彩色・軸(一幅) 縦二〇一・五×横八四・八センチ 東京国立博物館蔵
『萌芽』は御舟十八歳の作である。署名は浩然で、これは大正元年から使い出した雅号である。『萌芽』は原三渓が買い上げ、パトロンとして経済的援助するきっかけになった作品でもある。少し灰色がかった樹木の中央に紫衣の尼僧が立っている。技法を言えば横山大観らの朦朧体などの影響を指摘できるだろう。朦朧体は印象派の影響を受けた当時最先端の日本画の技法だった。しかし技法ではなくこの作品で表現されたような、凜とした孤独感さえ漂わせる静謐な高い精神性が御舟作品の基調である。他の作品を見ても御舟は十代の終わりにはすでに彼独自の画境を掴んでいる。その意味で極めて早熟な画家だった。
『紙すき場(近村)』
大正三年(一九一四年)絹本・彩色・軸(一幅) 縦二三二・一×横五五・四センチ 東京国立博物館蔵
『紙すき場(近村)』は再興院展に出品された作品である。大きな縦長の画面を横に切るように、紙漉場とそれを取り巻く畑や田んぼが描かれている。ザックリとした筆遣いで、野の花は点描のような描き方だ。当時としてはかなり斬新な風景画で、この作品の芋畑の緑青と群青の表現は今村紫紅の助言によるものだと御舟は言っている。
紫紅は安雅堂画塾の兄弟子で、御舟より十四歳年上だった。まさに新進気鋭といった画家で、紫紅会、紅児会といった画家集団を結成した。その名の通り、紫紅を中心とした会である。強いリーダーシップを持つ画家だった。大正十三年(一九一三年)には赤曜会を結成し、御舟も会員になった。日本画家の集団だが第一回赤曜会展は、フランスのアンデパンダン展に倣って目黒のテント張りの屋外で開催された。紫紅は「日本画なんてこんなに固まってしまったんでは仕方がありゃアしない。兎に角破壊するんだなナ。出来上がってしまったものは、どうしても一度打ち砕さなくちゃ駄目だ。そすと誰かが又建設するだろう。僕は壊すから、君達建設してくれ給え」と言ったのだという。
紫紅は大正五年(一九一六年)に三十七歳の若さで夭折してしまう。しかし若き日の御舟に一番影響を与えたのは紫紅だろう。御舟は紫紅を追うように同じ長屋に引っ越したりもしている。初期作品を見ると貪欲に紫紅の絵から学んでいることがわかる。ただ御舟が紫紅から学んだ最も重要なものは変化し続ける姿勢だろう。
手の芸術である絵画は残酷な面を持っている。かなり早い時期に、持って生まれたとしか言いようのない画才が露わになってしまうのだ。御舟は天性としか言いようのない優れた画才を持っていたが、それはある定点に彼を引き戻すような強力な力でもあった。破壊し変わり続けようとした紫紅の姿勢は、ほおっておけば小さく縮こまりがちな御舟の画風に、風穴を開けるヒントとなったのではないだろうか。
『京の舞妓』
大正九年(一九二〇年)絹本・彩色・軸(一幅) 縦一五二・三×横一〇一・八センチ 東京国立博物館蔵
今回の展覧会の統括者であり、御舟研究家で山種美術館館長でもある山﨑妙子氏が図録巻頭の総論「速水御舟――近代日本画の前衛として」で書いておられるように、「日本画の画材として、多くの画家に愛された舞妓を描いているにもかかわらず、この作品は他の作品と比べてきわめて異質である」。
御舟作品で、はっきりグロテスクな印象を与える絵は『京の舞妓』一点のみである。モデルは土田麦僊も使った祇園の舞妓・君栄である。もちろん麦僊作品では美人として描かれている。御舟はこの絵に時間をかけ細部まで描いた。着物の柄はもちろん、畳みの目まで緻密に描いている。しかしこの絵には署名がない。時間と労力をかけた自信作ならば不可解である。
御舟は『京の舞妓』について、妻の弥に「自分は舞妓を描きたくて描いたのではない。あの舞妓の群青の絞りの着物が素晴らしかったので、それが描きたかったんだ」と語った。一方で「人間の浅ましい美しさ」と「陰の奥に存在する真実」を描いたのだとも述べている。御舟には珍しいあからさまな批判の言葉である。御舟と麦僊は君栄を取り合ったらしい。後に麦僊が君栄をひいている。そのさや当ての中で、御舟が美しい舞妓の内面を覗き込む瞬間があったのではないか。
背景の暗い色調、白粉を塗っているにもかかわらずどこか頽れが感じられるような顔の隈取り、着物はそれとは対照的な明るい色調だが、どう見てもバランスが悪い。しかもそれが執拗なほどの細かさで描かれているのだ。御舟は「写生のやり方が足らなかった」とも説明したようだが、その言葉は示唆的だ。恐らく御舟はモデルの内面を写生して表現したかったのだろう。描く御舟の心もモデルの心も複雑だったのではないか。それが神経症的なまでの細密描写になって表れているように思う。
『京の舞妓』は第七回院展に出品されたが評判は散々で、横山大観は院展からの御舟の除名まで主張したほどだった。好んで物議を醸すような画家ではないので、『京の舞妓』を巡るスキャンダルはあくまで結果論である。ただ御舟の高貴と言っていい精神的な高みはそれにふさわしい対象を得たときに発揮される。『京の舞妓』ではそれが逆ベクトルに作用したように思う。御舟は後にこの絵には「細密描写の弊」があるが、画業の上での「一つの過程だった」と述べている。人や事物の本質の捉え方について得るものがあったのだろう。
なおこの絵に関しては、大正十二年(一九二三年)頃から密な交際が始まる岸田劉生の『麗子像』との影響関係がしばしば論じられる。しかし『京の舞妓』以外に御舟はいわゆるグロテスク画を描いていない。また劉生のデロリとした『麗子像』は、浮世絵などの過去の日本の絵や中国絵画への関心が基になっている。御舟も劉生も絵の新たな技法をひたすらに追い求めた作家ではない。新たな技法を採用する時は、彼らの精神が新たな方向に向かっている。あくまで個々の画業の一貫性を元に、同時代作家の影響を検証すべきではなかろうか。
『鍋島の皿に柘榴』
大正十年(一九二一年)絹本・彩色・軸(一幅) 縦三六・八×横四九・五センチ
大正十年頃から御舟は、明らかに中国南宋画壇を想起させる静物画を描き始める。それは御舟という画家にとっては半ば必然的なことだったろう。御舟の絵は極めて求心的ではっきりとした核がある。南宋画壇の絵も同じなのだ。モンゴルの女真族の金に圧迫された宋は華南へと都を移してゆくが、当時の人々の精神状態を表すかのように絵は静謐で、内へ内へと内向してゆくような精神性を感じさせる。御舟は静物一つ描いてもその画境を表現できる画家である。
『木蓮(春園麗華)』
大正十五年(一九二六年)絹本・墨画・軸(一幅) 縦一四七・七×横四七・三センチ
『木蓮(春園麗華)』は墨画だが、色と匂いを感じさせる御舟ならではの作品である。この作家にとっては色は必須ではない。墨画でもほんの小品でも御舟は自らの絵画世界を表現できる。この精神的求心性を、いかに外の世界に向けて解き放つのかが御舟の画業のアポリアだったと思う。
『炎舞(重要文化財)』
大正十四年(一九二五年)絹本・着色・額(一面) 縦一二〇・三×横五三・八センチ 山種美術館蔵
『炎舞』は言わずと知れた御舟の代表作である。この作品は容易に生と死を想起させる。炎の中に蛾が飛び込んで焼け死ぬことが予想されるからだ。〝意味で読み解けるような絵は傑作とは呼べない〟。長い間そう思っていた。しかしそれは一面的な見方だったかもしれない。『炎舞』は求心的な自らの資質をどう華やかなものにするのかという、御舟の優れた試みの一つだったのかもしれない。
『名樹散椿(重要文化財)』
昭和四年(一九二九年)紙本金地・彩色・屏風(二曲一双) 各縦一六七・九×横一六九・九センチ 山種美術館蔵
『名樹散椿』もまた御舟代表作である。昭和の作品で初めて重要文化財指定を受けた作品でもある。伸びやかな椿の幹で、左方向に大きく枝が伸びて紅椿、白椿を咲かせている。この作品を見ていると、御舟が広がること、華やかであることを求めていたことがよくわかる。御舟は昭和十年(一九三五年)に四十歳で早世するが、その画業は美しいが小さな世界にまとまりがちな、本質的にはマイナーとも呼べるような画家が、いかに大画家へと変貌してゆくのかの戦いの軌跡だったように思う。
鶴山裕司
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