斉木楠雄のΨ難(さいきくすおのサイなん)
テレビ東京系列
月~金曜日 朝7:05~(おはスタ)
毎週日曜 深夜1:35~
『斉木楠雄のΨ難』は、週刊少年ジャンプで連載中の麻生周一さんのギャグマンガである。アニメ化もされていて、テレビ東京系の『おはスタ』内で一話ずつ、日曜日深夜にはその週の五話分がまとめて放送されている。実写映画化も進んでいて、福田雄一監督、山崎賢人さん主演で二〇一七年に公開されるようだ。タイトルの読みは〝さいきくすおのサイなん〟で、つまり〝サイキックス(超能力者)の災難〟ということである。
主人公の斉木楠雄はPK学園に通う高校生の男の子である。生まれつきテレパシー、サイコキネシス、透視、予知、テレポートなどの力を持つ超能力者だ。すべてを思い通りにできる全能の力を持っているわけだが、それは普通の人間が体験できる驚きや感動を奪ってしまう厄介な力でもある。斉木少年はすべてを与えられた幸せな男ではなく、すべてを奪われた不幸な男なのだ。そのため斉木は普段は能力を封印して、できるだけ目立たない高校生活を送っている。それでも超能力者ゆえに、斉木の身に次々に降りかかってくる〝災難〟を描いたギャグマンガである。
斉木の能力の中心はテレパシーである。そのためマンガ(アニメ)ではまったくの無表情だ。相手の心が読めて感動や驚きがないから無表情なのであり、口を開かなくても自分の心を相手に伝えることができる。主人公に表情がないのはマンガではマイナス要素だが、この作品ではそれが逆手に取られている。心が読める斉木は、面倒なことが起こりそうになるとちょっとした操作でそれを回避しようとする。しかし人間は時に突飛な言動をしてしまう動物だ。たいていは斉木のシナリオ通りに事は運ばず、ドタバタが起きてしまう。常にポーカーフェイスだが、斉木の内面はけっこう波立っている。
たとえば学園のアイドル照橋心美(てるはしここみ)は、「人類七十億を代表する完璧な美少女」を自負し、実際に演じている。心美の心が読める斉木は彼女を徹底してスルーする。しかしそれが逆に心美の闘争心に火をつけてしまう。心美は自分のような美少女に心奪われない男がいることなど考えられないのだ。しかし心美のうぬぼれた心をへし折り、自分への関心をそらそうとする斉木の試みはことごとく失敗する。それどころかどんな困難に直面しても、優しく可愛い美少女でいようとする心美のアイドル魂に、ちょっと感動してしまったりするのだ。
天敵で親友というクラスメートもいる。燃堂力(ねんどうりき)はクラスの嫌われ者だが、なぜか斉木を相棒と呼んでつきまとう。斉木は虫のような小さな生き物を除いては、たいていの動物の心まで読むことができる。しかし燃堂の心だけは読めない。理由は燃堂が何も考えてないバカだからである。しかし人類で唯一心を読めない燃堂は、斉木に驚きと感動を与えてくれるかけがいのない存在でもある。
斉木の頭の中には、常に他人の思考が流れ込んでくる。それに対してツッコミを入れるのだが、口を開かず自分の思念を他者に伝えられる斉木にとっては、頭の中の呟きが相手とのコミュニケーションになる。相手の心を読んで「それは違うだろう」と思うと意地悪をし、「ちょっと可愛そうだな」と感じると、超能力を使って手助けしてやったりする。だから『斉木楠雄のΨ難』には言葉が満ちている。絵によるキャラクター表現も大事だが、『斉木楠雄のΨ難』は本質的には言語ギャグマンガである。
僕はこの言語ギャグマンガというヤツが大好きだ。古くは島本和彦の『炎の転校生』などがすぐに思い浮かぶ。島本さんは、最近では同じくテレビ東京で柳楽優弥さん主演で実写ドラマ化された『アオイホノオ』の原作者でもある。『アオイホノオ』の主人公もそうだが、『炎の転校生』の主人公・滝沢昇は思ったことをすべて口に出してしまう少年だ。しかし言葉が言葉によって裏切られ、言葉によって新たな展開が生まれる構造は『斉木楠雄のΨ難』と変わらない。
滝沢少年はひょんなことからボクシング部に所属することになり、勝つために必殺技〝中央線パンチ〟を発明する。相手に〝上り〟と〝下り〟のパンチを見舞うのだ。しかしライバルに、〝中央線は上り電車が行って下り電車が来るまでにタイムラグがある!〟と喝破され、試合に負けてしまう。再起を誓った滝沢は、新たにタイムラグのない〝山手線パンチ〟を開発してライバルに勝ったのだった。まあ確かに山手線は内回りと外回りがあって、電車の走行が途切れることがない。
大袈裟に言えば島本さんの『炎の転校生』は、現実世界がいかに言葉による思い込みによって作られているのかを示している。呼び方や描写をちょっと変えただけで、物や人の評価が変わることは珍しくない。それに対して『斉木楠雄のΨ難』は現実の強さを表現している。確かに人間の思考はふわふわしていて捉え所がないが、その本質は意外に一貫した強いものである。それは超能力などを使っても簡単には変えられない。いずれにせよ言語ギャグマンガは、言葉と現実世界とのギャップに着目している。言葉と現実世界のギャップが大きくなればなるほど笑いが生まれるのだが、それが一致しても「なんだかなぁ」というおかしみが生じる。
こういった言語ギャグが、小説と相性がいいことは言うまでもない。古くは井上ひさし作品や小林信彦の『オヨヨ大統領』シリーズなどを思い浮かべてもらえばいい。しかし現代では言語ギャグは、ほぼマンガ家さんたちの専売特許になっているようだ。マンガの世界では大衆エンタメ小説を凌ぐような面白いストリーマンガが次々に生まれている。言語ギャグマンガの質も高い。それはマンガ家たちが、かつては小説の独擅場だった言葉の世界をも、その作品に取り入れていることを示している。マンガはサブカルチャーと呼ばれるが、その質の高さや市場規模から言って、今や日本を代表するメインカルチャーだと思う。
小説の世界ではラノベなどの新たなジャンルが生まれている。ただラノベは従来の大衆小説から分岐したジャンルではない。マンガやアニメの影響で生まれた小説ジャンルである。そのためステレオタイプな美少年・美少女を設定し、その外面と内面のギャップを描く作品が主になっている。小説はマンガのようにヴィジュアルをともなわないので、読者それぞれが登場人物たちのイメージを育むことができる。しかしそれがラノベの魅力を倍加させているとは思えない。ステレオタイプな人物造形をするなら、そのヴィジュアルが確定されていた方が良いのだ。
マンガは基本的に、ヴィジュアルも性格も固定された登場人物の内面の揺らぎを描く芸術である。定点的な基盤があり、その上に物語やギャグが作られるから、読者は語られてしまった内容を超えた作品の奥行きを感じ取ることができる。マンガやアニメを中心に、二次創作が盛んになる要因である。それが新たなキャラクターや物語の創造にもつながってゆく。ラノベで二次創作するよりも、マンガやアニメを元にした方が遙かに簡単なのだ。二次創作――つまり過去コンテンツの引用と改変が、現代芸術では必須の手法であるのは言うまでもない。
小説などの昔ながらの芸術領域では、マンガやアニメを一段下の芸術だと考える風潮がいまだにある。プライドが高いのはいいことかもしれないが、実体がともなわなければ意味がない。また主に経済的理由からかもしれないが、マンガやアニメの業界にすり寄っているのは小説業界の方なのだ。しかしマンガやアニメが、なぜかくも多くの読者を惹きつけるのか、本気で考えなければ小説独自の新しさを見出すのは難しいだろう。
ヴィジュアルアートが全盛になる前は、小説が愛や友情や性、それに怒りや悲しみや喜び、笑いを表現するための重要なツールだった。今やそれらは良質のマンガやアニメやゲームで、よりストレートに表現できるようになっている。小説は小説でしか表現できない表現を見出さなければ、今後もますます衰退してゆくばかりだろうな、と斉木楠雄の呟きを聞きながら思ったのだった。
田山了一
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