『椿説弓張月』絵幟 八町礫紀平治
江戸時代 文化文政頃
滝沢馬琴の『椿説弓張月』を読み飛ばしたのはもうだいぶ前で(もちろん活字版)、読んでいる時は面白かった記憶があるのだが、内容は忘れてしまった。この原稿を書くためにパラパラ読み返していて、その理由をおぼろに思い出した。要するに大衆娯楽小説なのである。現代でも大衆小説やラノベで史実を題材(きっかけ)にはしているが、人智を超えた悪の権化が現れて主人公が大活劇を演じる小説がたくさんある。内容的にはそれとほとんど変わらない。ただ日本でそういった本格的歴史エンタメ小説を書いた作家は馬琴が初めてであり、創始者としての栄誉は馬琴にある。
明治二十年頃まで馬琴は生きた作家だった。正岡子規や夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉ら慶応三年生まれ組は明治十年代から二十年代には学生だったが、エセーなどで貸本屋から馬琴作品を借りて読み耽ったと書き残している。明治も三十年代後半になると島崎藤村の『破壊』や漱石の『吾輩は猫である』などが出版されて、馬琴は急速に江戸封建時代の古臭い作家の位置に追いやられてゆく。いわゆるヨーロッパ的な近代的自我意識文学の時代は、明治四十年代から始まるというのが文学史の常識である。ただそれは御一新以降の文学の〝新しさ〟を基準にした場合の話しで、実態は違う。
当時の新聞小説などを読めばすぐにわかるが、文語体が口語体(緩い文語調)に変わり、会話を独立させるなどヨーロッパ小説的書き方になっただけで、馬琴的大衆小説の方が圧倒的多数である。今も昔もエンタメ大衆小説が小説文学の大半を占めるのは同じなのだ。歴史物が好まれるのも現代と変わらない。別に純文学の方が偉いと言っているわけではないが、時間が経つと各時代の〝新しさ〟を表現した作品がそれぞれの時代の顔となってゆく。
『椿説弓張月』絵幟(著者蔵)
江戸時代 文化文政頃 麻布彩色
縦70.3×横33.5センチ(最大値)
逆に言うと血湧き肉躍る大衆エンタメ小説は小説文学の普遍的基盤である。それは今後も決してなくならないだろう。ただほとんどの大衆エンタメ小説が、読者をつかの間楽しませただけで人々の記憶から忘れられてゆくのも確かである。文学史に名を残す大衆作家は新たなジャンルの創始者か、その内容が娯楽を超えた引っかかりを持っている場合だけである。馬琴はその両方に当てはまる作家である。
馬琴の『椿説弓張月』の主人公・源為朝は実在の人物で、平家時代直前の平安末に活躍した。父は源為義でその八男である。誇張はあるだろうが二メートル近い大男で弓の名手だったと伝えられる。平安末に新たに出現した、合戦と戦場で死ぬことを仕事とした最初の武士の一人だった。猛者ゆえの傍若無人な振る舞いが祟って父・為義に勘当され九州に追放されたが、平忠国の婿になってまたたく間に九州を制圧してしまった。その際、鎮西総追捕使を称したので鎮西八郎とも呼ばれる。
鳥羽法皇の崩御によって崇徳上皇と後白河天皇が対立し保元の乱(一一五六年)が起こると、為朝は父・為義と共に崇徳上皇側についた。為朝が刃を交えたのは平清盛軍である。しかし戦い破れ父も兄弟も斬首され、為朝は伊豆大島に流された。為朝は伊豆でも国司の命に従わず、自らの軍勢を率いて暴れ回り伊豆諸島を支配してしまった。そのため朝廷軍の追討を受け自害した、というのが『保元物語』などに書かれた為朝の伝記である。
馬琴は『椿説弓張月』『後篇』途中まで、おおむね『保元物語』や『愚管抄』などの史書に沿って物語を書いている。しかし為朝は自害せず、秘かに伊豆大島を逃れて古巣の九州に潜伏し、保元の乱後、この世の春を謳歌する平清盛追討を決意したと仮構した。だが嵐にあって船が難破し、琉球(沖縄)に漂着してしまう。ちょっと苦しい歴史的つじつま合わせである。ただ琉球篇になると、当時琉球は遠い異国で情報が少なかったこともあり、馬琴は自由に空想の翼を拡げることができるようになった。馬琴は『前篇』から『残篇』まで五篇に分けて『弓張月』を書き継いだが、九州以来の腹心・八町礫紀平治(八町つまり約八百メートル以内なら石礫を百発百中で命中させられるのでこの名がある)を琉球出身にしているので、当初から琉球篇を書くつもりだったようだ。
琉球では尚寧王が、暗愚ゆえに開いてはならない蛟塚を暴き(パンドラの箱のようなもの)、そこから出現した曚雲という名の妖魔に殺されて国じゅうが大混乱に陥っていた。為朝は曚雲を討伐し、民衆から求められても空位となった琉球王になることを固辞するが、息子の舜天丸が王の座につくというのが物語のあらすじである。為朝の子が琉球王になったという話は史実ではないが、『中山世鑑』や『おもろさうし』にも書かれている。なお「椿説」は「珍説」のことで、正史ではないフィクションの意味である。「弓張月」だが古来弓道では、月の満ち欠けになぞらえて奥義を説く。弓を引き絞った状態が満月で矢を放つと半月になる。弓の名手・為朝の生涯を、月の満ち欠けに擬した小説である。
『椿説弓張月』には、今日の大衆エンタメ小説にも通じる小説作法のほぼすべてが詰まっている。『弓張月』が書かれた文化年間には、ロシア使節レザノフが来航して通商を要求するなど、にわかに領土や国防問題への関心が高まっていた。幕府は蝦夷地を直轄領にして主に北方警護を厳重にするが、馬琴はそんな世相をあたりさわりのない琉球に置き換えた。現代エンタメ作家たちが、大震災や原発問題などの社会的事件をいち早く作品に取り入れるのと同じである。
実際馬琴は世相流行を作品に反映させられる速筆の人だった。馬琴は『弓張月』『後篇』について、「其初巻より第三の巻に至ては、季春下旬(陰暦三月下旬)に筆を起して、首夏の端八(同五月八日)に稿を脱り」と書いている。約一ヶ月で四百字詰め原稿用紙百五十枚を仕上げたわけだ。現代の流行作家となんら変わらない原稿量である。印税がなく原稿買い取りだった時代に、馬琴が筆一本で生計を立てられたのはその原稿量ゆえだ。馬琴はまた『続篇』巻末で、忙しくて読者からの手紙に思うように返信できないとか、欲しがる人が多いので画賛扇を売りに出したと書いている。現代とは規模もシステムも異なるが、江戸後期には出版ビジネスが確固たる形で成立していた。
小説の形式は意外に底堅いものである。だから決まり切った小説形式を崩すと作品が〝前衛的〟に見えたりするわけだが、内容の面白さで読者を引っ張る大衆小説では型が露わになりやすい。馬琴は博覧強記の人であり、作品の中はもちろん、前書きや後記などでも知識を披露している。ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』やハーマン・メルヴィル『モビィ・ディック』にもナポレオンや鯨を巡る長話がある。洋の東西を問わない十九世紀的ペダンティズムだとも言えるが、こういった知識の挟み込みは多かれ少なかれどの小説家も行っている。
馬琴はまた一巻の終わりで「これは神か人か。次の巻を読みえて知らん」などと、読者を続編に誘うための言葉を書いている。近代小説では作家が作品中に顔を出さないのが鉄則だが、あえてそれを破る現代作家も大勢いる。言語芸術は恐ろしく歴史が古い。いつの時代でも〝新しさ〟は前時代との相対的差異から生じる。現代作家がタブーを破って作中に作家を登場させても、それは現代と近代の差異から生じる一時の面白みに過ぎないということだ。馬琴作品には面白い作品を書こうとすれば、作家が必ずたどり着くような型がたくさんある。逆に言えば馬琴が江戸後期を代表する作家なのは、その内容が特異だからである。
「八郎の忠孝信義は乾坤に通じ、鬼神に合し、求ずして道を得たれば、死すといふとも滅ることなく、生りといふとも神に斉し。帰国の準備は舟車に及ばず。讃岐院のおん迎はや近づきぬ。」と告もあへぬに、紫雲靉靆として、東のかたより天引つつ、雲の中には為朝の弟、源九郎為仲、白縫姫もろともに、保元の合戦に討死せし(中略)二十七騎の勇士を将て、(中略)あれよあれよ、とばかりに、招くかひなき天の原、ふりさけ見れば八重雲の、霞にまぎれて見えずなりぬ。
(『椿説弓張月』『残篇巻之五』第六十七回)
『弓張月』の大団円の箇所だが、為朝は保元の乱で討ち死にした父と兄弟たちに守護された崇徳院に迎えられて昇天する。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に配流となり、そこで没して怨霊伝説が生まれた院である。馬琴が書いているように、天に召された為朝は神に等しい存在となった。崇徳院の従者として、鎮めても鎮めても世を騒がす怨霊神となったということでもある。しかし馬琴が為朝に仮託して反体制的思想を表現しようとしたとは言えない。
馬琴は保元の乱はもちろん、伊豆大島でも戦いに敗れた為朝を、切腹して潔く死にたがる存在として描いている。それが『保元物語』などに書かれた史実に近い為朝の姿である。負けるとわかっていても戦い、破れればあっさり死ぬのが武士の仕事だった。しかし死に取り憑かれたと言って良い敗者・為朝を馬琴は生かした。そこにはたとえ優れた才能を持っていても、現世のしがらみで、それを存分に伸ばせない人間がいるという馬琴の思想がある。また世の中の人々はそのような力ある不遇の人を忘れないのであり、その生の軌跡は必ず後世にまで影響を与えるという馬琴の思想の表れでもある。馬琴はこの思想に基づいて、物語の中で実際より数十年長く為朝を生かしたのである。
為朝は馬琴と同じく封建社会に深くとりこめられた人だった。朝敵とみなされても天皇家自体には弓を引かず、たとえ理不尽な要求をされても、主従の分を決して超えようとはしない。為朝は琉球王になるよう懇願されても固辞し、息子の舜天丸が身分を超えて王座につくわけだが、日の本を離れた琉球ならそのような逸脱も許されると馬琴は考えたのだろう。馬琴偏愛の為朝へのフィクショナルな餞である。
ただ馬琴が『弓張月』で描きたかったのは、本質的には人間の〝分〟だと思う。高貴の人から庶民に至るまで人間には分がある。傍若無人な貴人はその座から滑り落ちる。庶民も同じだ。富貴にはなり得ても、血筋の僭称はかえってその品格を貶める。孔子の正名論に基づく封建社会の基本哲学だが、個人では如何ともしがたい分に押し込められていても、その中で足掻き努力すれば、実質的に分は超えられるというのが馬琴の思想である。それは封建社会にとっての理想的思想であると同時に、わずかに秩序を逸脱する部分を持っていた。
馬琴は『弓張月』に続いて畢生の大作『南総里見八犬伝』を書いた。ここでもまず敗者が登場する。また八犬士は、当時は不浄とされた犬と姫君との間に生まれた子たちである。『八犬伝』については湯島聖堂の儒者たちが発禁を検討したことが知られている。為政者たちは『八犬伝』に不穏なものを感じたのである。しかし結局は沙汰止みになった。馬琴という作家に、どうやっても反体制思想を見いだせなかったのだ。馬琴は当時の社会制度に従順でありながら、人々の心の中に渦巻く無意識的欲望を表現した作家らしい作家だったということである。
僕も子供だったことがある。親から「偉い人になれよ」と言われれば、「うん」と素直に返事をする子供だったと思う。しかし今は古ぼけた江戸の絵幟を見ながら違うことを考えている。「偉い人になる」とは、立身出世するとはどういうことだろう。正直に言えば、僕は人間には分があると思う。むしろ分を意識することが、どんな形であれ世の中に寄与するための第一歩なのではなかろうか。絵幟の中で、決して身分の差を、分を超えない為朝・紀平治主従は同じ方向を見ている。それでいいのだと思う。人間は一点を見つめて、自分にできることをやりとげられればそれでいい。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■