『椿説弓張月』絵幟 源為朝
江戸時代 文化文政頃
現在では五月五日は子供の日で祝日だが、端午の節句や菖蒲の節句とも言う。端午は旧暦五月の最初の牛の日のことで、五が重なる五月五日が端午の節句として定着していったようだ。端午の節句は中国発祥で日本には七世紀の飛鳥時代に伝来したらしい。中国では古来、五月は悪月だと考えられていた。春になって草木が芽吹き生き物が活動し始める時期だが、気候変動が激しく天災や疫病が起こりやすかったのである。そのため菖蒲を家の門に掛け邪気を払う風習などがあった。現在は途絶したが、日本の朝廷でも明治時代頃まで菖蒲を飾り、潔斎を行う年中行事を行っていた。
魔除けや潔斎の意味で菖蒲を飾ることから、端午の節句は別名・菖蒲の節句と言われるようになったわけだが、それは菖蒲が病邪を払う薬草だと考えられていたからである。菖蒲湯はその名残である。また菖蒲と尚武の読みが同じことから、日本では鎌倉時代頃から男の子の節句となり、この日に男児の健やかな生育を祝うようになった。五月は悪月だとされるが田植えの時期でもあり、吉凶というか陰陽が入り交じる節目の月なのである。現代でも「五月病」と言われるように、新入生や新社会人が精神のバランスを崩しやすい月でもある。節目の五月を乗り切れば、精神と身体のバランスを保てるという考えが昔からあったようだ。
端午の節句と言うと、今はすぐに鯉のぼりが思い浮かぶ。これも龍門という流れの急な河を登りきった鯉は、龍に化けるという中国の伝説を踏まえている。登竜門や鯉の滝登りと呼ばれる故事で、男の子の立身出世を願って鯉のぼりを上げるのである。ただし現在のように、複数の鯉を泳がせるようになったのは明治四十年代以降のようだ。江戸時代にも鯉のぼりはあったが紙製で、真鯉一匹を象ったものが一般的だった。それも幕末頃からのようで、端午の節句には絵幟と呼ばれる大きな旗を屋外に立てることが多かった。幟は目印になるような長い布のことである。今でもスーパーの「大売り出し」の幟などをよく見かける。
現代では旗も幟も同じ意味で使われるが、昔の軍事の世界で旗は軍団を象徴する大型の布のことである。これに対し個々の武将が自己顕示のために掲げる小型の布を指物と呼んだ。味方への合図のために使う布も指物と呼ぶが、それらは今では旗指物と総称される。合戦で旗を使った歴史は古く『記紀』にも記述がある。平安末には一般化していたようで、源氏は白旗、平家は赤旗だった。運動会の紅組・白組や紅白歌合戦の起源である。この旗指物が、平和になった江戸初期に男の子の生育を祝う節句飾りに転用されたらしい。そのため江戸初期の節句幟は、旗指物の名残のある家紋中心の簡素な物が多い。
今回図版掲載したのは江戸後期に作られた絵幟である。絵幟は紙や絹や麻布の上に彩色した端午の節句幟のことである。紙製のものは小さいが、布製の絵幟は小さいものでも一メートル、大きなものは十メートルを超える。武家や裕福な町人は、端午の節句になると豪華な絵幟を競って庭に飾ったのである。絵の題材は様々で、先に述べた登竜門(鯉の滝登り)などの目出度模様はもちろん、金太郎や牛若丸といった日本の古い説話に題材を取ったものもある。三国志も人気だったようで、中国の故事では太公望などの絵も残っている。一番人気は武者絵である。現代でも家の中に飾る五月人形の両側には武者絵を立てることが多い。図版は武者の絵幟である。
この絵幟を買ったのは骨董に興味を持ち始めた二十年くらい前で、顔や指の描き方の特徴からすぐに浮世絵師の作品だとわかった。問題は誰が描かれているかである。江戸以前の絵師の場合、特に人物は空想で描くことはまずない。必ず古典から題材を取っている。屏風や軸で好んで描かれた武者絵は源平合戦だが、どうも違う。絵幟に描かれた武者はザンバラ髪で、大弓を抱えて海辺の岩場に立っている。下に描かれた従者は矢筒を持って主人と同じ方向を見ている。「浪人主従と大弓と海辺の岩場ねぇ」と長い間ひっかかっていたが、ある日、「なんだ、滝沢馬琴の『椿説弓張月』じゃないか」と気づいた。もっと古い古典から題材をとっていると思い込んでいたのである。
『椿説弓張月』絵幟(著者蔵)
江戸時代 文化文政頃 麻布彩色
縦70.8×横34センチ(最大値)
『椿説弓張月』だとわかるとこの絵幟はグッと読みやすくなる。描かれているのは主人公・源為朝(鎮西八郎為朝)とその従者の八町礫紀平治である。馬琴の『椿説弓張月』は続き物で、『前篇』『後篇』『続篇』『拾遺』『残篇』が順次板行(出版)された。『前篇』が出版されたのが文化四年(一八〇七年)で最後の『残篇』は文化八年(一八一一年)刊行である。江戸中期には史実を題材にしているが、実際にはフィクションの読本と呼ばれる小説ジャンルが生まれた。ただ上田秋成『雨月物語』のような短篇がほとんどだった。馬琴の『椿説弓張月』は初めての長篇読本で、当時異例の大ヒットとなった。そうなると為朝・紀平治主従が描かれた絵幟は、文化年間後半か遅くとも文政年間初期に作られたと推測できる。
骨董に限らないがどの世界にもコレクターはいて、絵幟も二〇〇九年に渋谷区立松濤美術館で『江戸の幟旗-庶民の願い・絵師の技-』という展覧会が開かれた。カタログは買ったのだがどこかに行ってしまい確認できないが、近世の小説を題材とした武者絵はなかったと思う。それには理由があるだろう。彩色した大きな絵幟を作るのはお金がかかる。また男の子の健やかな成長と出世を願うための縁起物だから、親の多くは目出度模様や由緒正しい古典を好んだ。流行小説を題材にした絵は、粋かもしれないがちょっとイレギュラーである。それに流行は醒めやすい。『椿説弓張月』を題材とした絵幟が少ないことから言っても(僕が確認できたのはこれ一点である)、小説が話題になった直後に作られたと思われる。
また『椿説弓張月』絵幟の作者は浮世絵師だが、たいていの絵幟は土佐派か住吉派の絵師が描いている。土佐派は京都の公家的なやまと絵を手がけた絵師集団で、住吉派は土佐派から独立して江戸幕府の御用絵師をつとめた。古典に題をとった雅な縁起物は、土佐派や住吉派の絵師に描かせるのが自然な流れだったのだろう。なのに『椿説弓張月』絵幟の作者が浮世絵師なのは、馬琴の『椿説弓張月』の挿絵を手がけたのが葛飾北斎だったからだ思う。『椿説弓張月』は当代きっての人気作家と絵師の合作だった。
【参考図版】葛飾北斎作『朱鍾馗図幟』
文化二年(一八〇五年)頃 木綿地朱彩
縦236×横94センチ
葛飾北斎作の『朱鍾馗図幟』は平成十八年(二〇〇六年)に開催された『ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑』で初めて日本公開された。ボストン美術館の日本コレクションの基礎を作ったウイリアム・スタージス・ビゲロー・コレクションの一つである。ビゲローが来日して美術品を収集したのは明治時代前期で、当時の日本では浮世絵などの評価が低く安価だったとはいえ、とてつもない目利きである。北斎の娘・応為(北斎は娘を「おーい」と呼んで雑用をさせていたのでこの雅号がある)の数少ない肉筆画『三曲合奏図』もビゲロー・コレクションの一つだ。ビゲローの蒐集にはエドワード・モース、アーネスト・フェノロサ、岡倉天心、柏木貨一郎、蜷川式胤らが関わっており、それをネタに一冊本が書けるくらい面白い。
それはともかく北斎の『朱鍾馗図幟』は端午の節句幟である。縦二メートル、横一メートルを超える大きな絵幟で、五月の節句に戸外に立てたのだろう。鍾馗は破邪の神様として古くから中国で信仰されていた。疱瘡除けの神様でもあり朱色で描くことが多い。北斎の鍾馗図は軸などでいくつか残っているが、節句幟は今のところこの一点のみである。北斎を号するようになった時期には、町衆の間とはいえ彼は人気画家だった。ビゲロー・コレクションには提灯に龍虎を描いた、目が覚めるほど素晴らしい北斎作品もある。北斎は浮世絵や肉筆画だけでなく、依頼されてさまざまな素材に絵を描いたはずである。しかし幟などは痛みやすいのであまり伝わっていない。
北斎はだいぶ前からだが、最近では伊藤若冲も〝天才〟と賞されるようになり、ありとあらゆる作品が、神聖記号のようにゆるがせにできないものとして神格化されている。しかし彼らは飯を食い糞をした普通の人間だ。もちろん飛びっきり腕のいい絵師たちだが、その天才と言われる付加価値評価は、時代変動による偶然の産物である部分も多い。
浮世絵の歴史を辿ればすぐわかるが、北斎の時代において〝歌舞伎的な江戸の粋の型〟がはっきり成立している。豊国の型はまだ甘く、英泉、国貞、国芳の時代になると北斎的な型が緩む。というより型を崩すことが新たな粋となる。北斎は抜群に型にはめるのが上手い絵師だった。また彼は人物、妖怪、風景などの画題を、最も効果的に描く複数の型を持っていた。それが北斎の画家としての高い知性である。節句幟の鍾馗図でも、たいていの絵師は鍾馗様を布の真ん中にドンと描く。しかし北斎は、それが風に翻ることを計算して右向きに歩き出す姿を描いている。馬琴が北斎の挿絵を好んだのも画題の理解力の高さゆえだろう。
江戸も後期になると封建社会の身分制度は強固なまま、その内実が流動的になる。北斎がしがない浮世絵師を自任しながら、画家としての高い矜持を持っていたのはよく知られている。歌川広重は八代州河岸定火消屋敷同心の子だが自ら望んで浮世絵師になった。枕絵作者として淫乱斎を名乗り、幕末の退廃を一身に担った渓斎英泉も下級武士の子だった。滝沢馬琴もまた旗本松平家用人の息子でありながら読本作者となった。江戸後期は内実がグズグズになり始めていたからこそ、封建身分制度がかえって強固に働いた時代でもある。
幕府や諸藩で公的な知を担った儒者はもちろんのこと、読本や戯作者、浮世絵師となった町人もまた当時の知識人たちだった。ただ町人の創作者たちには、彼ら個人の意思では如何ともしがたい身分制度の壁があった。その壁を無視して彼らを自由な創作者とみなすのは現代人の恣意に過ぎない。むしろ乗り越えられない理不尽な壁を、壁の内部から浸食するかのような創造性が彼らの芸術の醍醐味である。馬琴は『椿説弓張月』とそれに続く『南総里見八犬伝』で読本作家としての地位を不動のものにした。荒唐無稽な痛快活劇だが、そこには影がある。馬琴の読本の主人公は敗者である。荒ぶる武闘神だが怨霊神でもあった。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(後半に続く)
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