角川『俳句』の創刊号は昭和27年6月号。終戦から7年後のことで、朝日新聞に掲載された田中亜美氏の「俳句時評」によれば、「終戦からしばらく経ち、精神的文化の復興を求める機運の高まった時代である」そうです。3回連続の創刊60周年特集の今号が2回目ということで、前厄(まえやく)・本厄(ほんやく)・後厄(あとやく)ではありませんが、前号がジャブの探り合い程度に抑えていたとしたら、この6月号は右ストレートがスマッシュヒット!といった内容です。なお、厄年の喩えはおめでたい席に水を差すようで不適当極まりないのですが、他意はございませんので悪しからずお付き合い願い候。
先ずは右ストレートの話から始めたいところですが、その前に左のジャブを一発かましておきましょうか。巻頭から私のような俳句の外の人間でもその名前を知っているような、17人のビッグネームが贅沢なことに見開き2頁に1人ずつ、「記念作品」と銘打った自作5句と「『俳句』とわたし」というテーマのエッセイを掲載しています。記念作品とはいえ多くの方々が近詠のなかに1句、お付き合い程度に記念作品を交えているといったなかで、最後に登場した長谷川櫂氏は5句すべてのモチーフに60周年記念を取り入れていました。しかも5句とも記念という限定を度外視しても面白く読めるものばかりでした。その中から1句紹介しておきます。
回想の中に籐椅子一つ置く
創刊XX周年を自ら意味づけねばならない総合誌が手前味噌という批判を避けるとしたら、こうした御祝儀企画での作品やエセーのレベルをいかに高めるかということにかかってくるのではないでしょうか。それは御祝儀には違いないのですが、それ以前に俳句作品であり散文作品であるということに違いがあるはずはありません。「60周年に寄せて」といった詞書がなくても、俳句として十分読み得る作品をいかに多く並べることができるかということこそ、そうした作家の人選を含めたうえで編集の腕の見せ所だと思います。そしてそうした作品自体の存在こそが得難い御祝儀となるのです。それこそ俳句の本質が存問にあるということの意味ではないでしょうか。
とはいうものの重鎮レベルの方々ならば、その回想もまた単なる思い出話とは質を異にします。「『俳句』とわたし」で言うならば、たとえば創刊編集長の故角川源義社長と同い年という後藤比奈夫氏は、「まず何かと世話を焼いて下さったのが、『俳句研究』の高柳重信編集長、続いて『俳句』の鈴木豊一編集長であった。高柳さんとはお会いして話をしたことは数回しかないが、私の原稿の書き方などが気に入って下さり親しく引き回していただいた」と書いているように、当時の俳壇では、前衛的な俳句のリーダー格であった重信の『俳句研究』が、角川『俳句』と肩を並べていたことがうかがえます。
続いて金子兜太氏は塚崎良雄編集長の思い出を語るなかで、「現代俳句協会から、「有季定型」を掲げて、俳人協会が分離独立した直後のことで、社長の角川源義さんがその黒幕であることは周知のことだった。(中略)塚崎さんは、前衛とまで称された現代派を推進したのである」と、俳壇における総合誌の暗躍?に言及します。また、ホトトギスの稲畑汀子氏は、「俳句と媒体との関係に絞って近代俳句の歴史を振り返ると、先ず最初に来るのが「新聞の時代」であった。(中略)次に到来したのは「結社の俳誌の時代」である。(中略)そしてその次に来たのが「総合俳誌の時代」であり、代表が角川『俳句』である」と断定します。
流石に虚子の孫だけあって冷静かつ自信に溢れた切れ味です。このエセーも題して「心せよ」と誰かに向かって一喝しています。「登山する健脚なれど心せよ」という『俳句』創刊に寄せた祖父虚子の句の引用ですが、「『俳句』が『ホトトギス』や私自身の特集を何度も組んで下さったことに感謝している」と結んでいるところから察するに、「心せよ」とは「くれぐれも私を無視するでないぞ。とくと心せよ。」という3代に亘る脅し、といっては下種の勘ぐりでしょうか。
もうひとり興味深い回想をしている方がいます。東大総長、文部大臣、科学技術庁長官などを歴任した有馬朗人氏です。いわく、「桑原武夫の「第二芸術」論にかっかしていた、当時の若手であった我々の世代にとって、『俳句』の創刊は実に嬉しかった。伝統と前衛の間で飛び交う火花を見ながら、俳句が生々とした文学としての力を持っていることを、身をもって感じたものである」と。このような回想というよりも「証言」を聞くと、ジャンルの活性化にはある種の対立構造が不可欠なのだ、ということに納得してしまいます。
そうした納得はなにも、有馬氏が旭日大綬章を受勲した功績によってもたらされるわけではありません。かつては様々な利害の対立に身を置きながらも、いまはそうした俗世間から脱して仙人のように俳壇という狭い世界を俯瞰する、無欲な長老であるが故に自然と備わった説得力の賜物なのです。御老人のお言葉には真摯に耳を傾ける必要がありそうです。
有馬氏の証言は、現代俳句の状況を省みるにある示唆をもたらしています。それはジャンルの権威に対するアンチテーゼや対立構造が、ジャンルそのもののを活性化させてきた事実です。つまり、そうした歴史的な意義から現代を捉えることで見えてくるのは、戦後の長きに亘って俳壇を活性化してきた「伝統VS前衛」という対立構造が終わって、俳壇は総合俳誌のメタファーそのままにさまざまな流派の俳句が肩を並べながらも、それぞれが己の個性を主張することに一生懸命なあまり隣の芝生にすら関心を失ってしまい、気が付けば同じような草草が群生する混沌とした様相を呈している、という状況です。外から見る限り活況を呈しているかのような俳壇ですが、こうして過去の貴重な証言から当時の俳句隆盛を想像すると、消える寸前に一瞬光り輝く蝋燭の炎ではありませんが、現代俳句は着実に衰退へと向かっているような気配を感じるのは私だけでしょうか。
ジャブのつもりが長いつば迫り合いになってしまいました。せっかくの右ストレートが伸びたラーメンみたいになっちゃうよ、という編集長のお叱りが耳に届かないうちに本号の「大特集」へと移りましょう。題して「自句自解に学ぶ―100俳人の代表句」。第一線で活躍中の俳人100人の代表句と自句自解を、各々の作句信条と合わせて一挙に掲載しています。こうした企画における最大の関心事は100人のセレクションです。
稲畑氏がおっしゃるとおり総合俳誌の代表である角川『俳句』ですから、そこは幅広い年齢層かつ全国の結社からまんべんなく活躍している俳人を集めていると思われます。年齢でいえば上は大正12年生まれ89歳の和田悟朗氏から下は昭和58年生まれの神野紗希氏まで。結社に関しても常日頃より『俳句』への貢献度の高い、ということはより大きなスペースの広告を掲載している結社を中心に選んでいるはず、というのは冗談です。
なにはともあれ100という数字に大した意味があるとは思えませんが、広い世代を代表する俳人による代表句の自句自解に加えて、正面きって語られる機会の少ない作句信条も読めちゃうわけですから、私のような俳句初学者にとっては俳句を勉強するうえでの格好の材料です。さらにせっかく質の高い素材が100もあるのですから、ここでは先ほどの対立構造に無理やりはめ込んで読んでみたいと思います。
援用するのは「世代」という対立構造です。簡単にいえば「老と若」です。100人の線引きがまた問題なのですが、私は迷わず筑紫磐井氏で線を引きました。筑紫氏のひとつ上までが「老」の世代で、筑紫氏から下が「若」の世代ということです。それは単純に1950年という区切りのいい生年で切ったわけではありません。作句信条を語るキーワードともいうべき言葉に拠って分割してみました。
昭和25年生まれ、ということはすでに還暦を過ぎている筑紫氏ですが、その作句信条は「分かりやすい前衛。」です。筑紫氏がこの企画に対して少し斜に構えているということはこの信条からも察することができますし、代表句として「もりソバのおつゆが足りぬ高濱家」を挙げて、「ホトトギスの方々とつながりを持てたいい句であった」と結び、自句自解のほとんどをこの句にまつわるエピソードに費やしていることからも伺えます。もちろん筑紫氏の一文を団塊の世代特有の照れ隠しと言って笑って許すことも吝かではありませんし、また「前衛が分かりやすかったらその時点でそれは前衛ではない。いやしくも前衛を標榜するなら、人から理解されなくてもかまわないぐらいの覚悟がなくっちゃ」と一刀両断切り捨て御免も悪くはありません。
それはさておき作句信条に出てくるキーワードを見ていきましょう。「老」の世代では、「精神」「自然」「尊重」「尊厳」「生きていることの実感」「人間存在」「本質を掴む」「我」「格調」「正直に詠む」「自分を写す」などなど、さすがに人生の年輪を積み重ねてきた方々ならではのキーワードが並びます。言葉はさまざまですが、「老」世代の信条のほとんどは、「俳句はいかにあるべきか」という根源的な問い掛けに対する俳句人生論的な返答になっています。人生経験によって導き出されているので確信に満ちています。同じ「有季定型」「花鳥諷詠」と言うにも、経験に裏打ちされた説得力があります。こうした経験こそが「老」の武器であるのはどの世界でも変わりありません。
それでは「若」はどうでしょうか。「世界と交歓」「今日的ポエジー」「超克と融合」「意識を共振」「象徴的」「自他のいのち」「印象」「挑戦」「幻視」「詩的真実」「今、ここ」。信条を語るわけですから言葉が具象を離れより観念へと傾くのは老若とも差は無いのですが、明らかにアフター筑紫では日常的な経験を離れた、よりフィクショナルな言葉が使われています。文学的といってもいいと思います。
さらに信条そのものを引用すれば、「花鳥諷詠をどう深め、広げてゆくか」(三村純也)、「季題とは何か、写生とは何かを問い続ける」(岸本尚毅)というように、信条というよりもより動的な決意表明がほとんどです。信条というからには規範となる観念の定義そのものが問われるはずなのですが、「若」は得てしてそうした信条の中身には興味が無いようで、大方がエクリチュール自体を問題としているようです。つまり前衛だろうが伝統だろうが象徴だろうが花鳥諷詠だろうが規範はどうでもいいのです。「若」にとっては基本的に信条すらただの言葉遊びなのです。バルトではありませんがまさに「零度のエクリチュール」といっていいでしょう。
老若を分かつこのような差異は、単に経験の総量によってもたらされたものなのでしょうか。もちろんそうした経験値も無視できないとは思います。しかしここで問題にしている経験とは人生経験のことではありません。あくまでも俳句的経験です。人生経験なら人生いろいろ百人十色ですが、俳句的経験となればそれは俳句史といかに関わったかということが問題になるわけで、関わり方は人それぞれでも俳句史はひとつのはずです。そうした絶対的なる俳句史を生きるなかで、俳句史から何を学んだのかという経験こそが問われるべきではないでしょうか。
俳句史から学んだ経験として、ここに登場する「老」と「若」それぞれの大方に当てはまるのが、「伝統VS前衛」という対立構造です。大方と言いましたが俳句史から学ぶことは、たとえ直接の経験によらなくても文献を読むことで十分可能なわけですから、老若の間に経験の過不足は無いとして考えたいと思います。
先日のこと、かつて高柳重信門下で前衛俳句をリードし、俳壇のメインストリームから離れてもなお、前衛の匂いを漂わせていた加藤郁乎が死にました。この死によって前衛と呼ぶに値する現存俳人は、秋田在住の安井浩司ただひとりになったといっても過言ではありません。安井浩司がいわゆる俳壇から黙殺に等しい扱いを受けていることを考えるに、とうに前衛俳句は敗れ去ったというのが俳句史的常識でしょう。つまり伝統対前衛の対立が俳句史に刻んだのは伝統の勝利という動かし難い事実にほかなりません。
「老」のなかにはこの対立の中で前衛に身を置いた俳人も何人かいますが、その後ほとんどが前衛的実験を棄て去り、手の平を返すかのように伝統的な俳句へと転進しました。そうした人も含めて「老」は、その歴史から伝統の強さを再認識したはずですし、第二芸術だなんだ言ったところでそんな時代のあだ花に振り回されるよりも、脈々と受け継がれてきた有季定型を墨守することの方が、俳句に留まることなく広く日本文学の行く末にとっても大切なのだと、妄信なんのそのであるかのように伝統への忠誠に身を捧げるのです。
これは推論でしかありませんが、伝統への忠誠とは、そうした対立構造のなかで一時的ではあるにせよ、自らのアイデンティティーを疑うほどの脅威を前衛に対し抱かざるを得なかったという苦い経験からくる一種のトラウマなのかもしれません。それは第二芸術もまた然りで、先に引用した有馬氏のエセーにもあったとおり、そうした俳句伝統への疑義に対し「かっかしていた」ほど、それがけっして無視できないという点で、自らを滅ぼしかねなかった危機的経験だったのではないでしょうか。
「若」はこの対立構造においてそのほとんどが傍観者でした。なかには文献の読書によってのみ経験したという意味での傍観者もいるでしょう。つまり彼らにとって伝統も前衛もすでに過去の遺物なのです。いうなれば俳句史そのものが、温故知新という言語体験のための道具のひとつに過ぎず、身を削ってまで受肉するほどのリアリティーはないのだといえます。そこには己のアイデンティティーを賭けて鎬を削るような対立は望むべくもありません。
筑紫氏が言うところの「分かりやすい前衛」とは、俳壇におけるこのような「若」の心情を的確に表現している、という意味で言い得て妙です。そしてこの現状はなにも「若」に限ることではありません。「老」と「若」それぞれの意図的なすれ違いとも言うべきこの不戦状態こそが、『俳句』60周年の、そしてほかでもない俳壇そのものの現状なのです。
繰り返しになりますが、対立構造の無いジャンルは必然的に衰退へと向かいます。いわゆる平和ボケというやつです。しかし、かつて己の存在意義を脅かされるような経験を経てきた「老」世代に対し、いまさら俳句の前途を賭けた闘いをせよとはさすがに言えません。そもそも俳句というジャンルは表向き隆盛の頂点を極めたかのようにも見えます。増え続ける俳句人口に加え、今や日本語という究極のアイデンティティーすら超え出ようとしているのですから。後はこの心地よいぬるま湯に浸かりながら、日々夢見心地のうちに寿命を全うして安楽な死を迎えればいいのです。所詮文学なんて命あっての物種です。生きてるうちが花なのです。これは俳壇に対する心からの揶揄です。
「若」世代にはこの平和ボケに危機感を持つ方もいるようで、対立構造を作り出すための意図的な批判を煽る動きも散見されます。本欄で毎回取り上げている岸本尚毅氏と宇井十間氏による「相互批評の試み」という往復書簡形式の討論は、『俳句』編集部の危機感に拠るものかどうかは分かりませんが、「若」世代同士による「本流VS傍流」という対立構造を露にする企画と捉えると面白く読めます。今号は前号からの続きで、「重くれと軽み」という俳句内における対立要素に焦点を当てていますが、こうした価値観の2項対立を冷静に考えれば、それが「前衛と伝統」という過去の遺物のアナロジーに過ぎないことが分かります。
今号では岸本氏が明快な論理でもって「重くれ」の本質へと接近してみせた上で、宇井氏に対し「重くれ」の魅力を問いかけているのですが、それに対し宇井氏は岸本氏の本質論を各論として等閑視し、独善的な論理の飛躍で自説を蒸し返してしまいます。ですがそれをもって私は宇井氏を非難するつもりはありません。なぜなら二人ともそれぞれの論の根拠としているのが、先程から「若」にとっての過去の遺物と申している「前衛と伝統」それだからです。
私は二人に是非、自分自身の俳句を根拠に勝負して欲しかったと言いたいのです。研究者同士の意見交換ではないのです。過去の遺物を引っ張り出してお茶を濁すような論争をしても、平和ボケを払拭することはできないはずです。そしてそれは『俳句』編集部の責任でもあります。角川『俳句』がジャーナリスティックに俳壇をリードしようとするなら、俳壇の未来より俳句の未来を優先すべきだと思います。
「若」世代による見せかけの対立構造の捏造は他にも見られます。こちらも本欄では毎回取り上げてきましたが、「高山れおなが読む 今月の10句」の中に捏造とおぼしき事件がありました。長谷川櫂氏の『震災句集』への反撥として、被災者の友人を主題に句集『関揺れる』を刊行した御中虫氏とその版元の島田牙城氏です。この件に関しては以前、高山氏が朝日新聞の俳壇時評の最終回で触れたことがあり、それを文学金魚ホームページの新聞時評欄で高木高志氏が批判していたのを読んで、詳しい経緯はともかくとしても、こうした異議申し立てが論争へと発展するかどうか気にはなっていました。
「余震に怯える友人という極私的回路を起動させることで、長谷川震災詠の一種の“帝王ぶり”を批判している」と高山さんが3ヶ月前の朝日新聞を蒸し返しているところから察するに、期待するような論争にまで発展することは無かったようです。残念至極ですが、ではいったい御中氏と島田氏は何のために出版したのでしょうか。乱暴な言い方ですが、こうした経緯不明な「事件」!がジャーナリスティックに取り上げられる場合、その多くがはっきり言って商売目的以外ではありません。
このような言い方が心外ならば、なによりもまず御中氏なり島田氏なりが、長谷川氏の『震災句集』への異議を、公的な媒体で申し立てるべきです。自身のホームページは私的な媒体ですので論外です。公的な媒体というのは、お二人がすでにそうした媒体と無縁ではないと思うからです。句集を書き下ろして出版することはけっして容易いことではありません。それだけの異議があるということに違いありません。ならば長谷川氏がその異議に応えることにもまた意義があるはずです。
高山さんもこの対立を煽るつもりなら、もっと詳しくその経緯を書くべきです。新聞俳壇や「今月の10句」のようなわずかなスペースでは、お茶を濁すのが精一杯です。それとも御中氏と島田氏の異議に対し、所詮お茶を濁すような程度という認識なのでしょうか。いずれにしろ高山氏の煽り方は高みの見物以上ではありません。理性的な対立というよりも感情的な対立を煽っているように見受けられます。高山さんが話題づくりのためだけに対立構造を捏造しているとしたら、物書きとして反省しなければならないと思います。
稲畑さんの証言に今一度触れますが、俳句ジャーナリズムにおける「新聞」→「結社誌」→「総合誌」という史的変遷が何を意味するかといえば、それは俳句がマーケットに成長した歴史そのものということです。角川『俳句』60周年とは、一総合誌の祝い事というよりも、俳壇マーケットの完成祝いにほかなりません。すでに俳壇にもマーケット至上主義が蔓延しているのです。そしてマーケットのためなら対立の捏造も止むなしとしたら・・・俳人がマーケットに馴れ合ってはならない。俳壇なら致し方ないとしても、俳句をマーケットに売り渡すことだけは避けなければなりません。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■