その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第十五話
それ以降、新一はますます重苦しい空気をまとうようになった。
外出中はわからないけど、家ではいつも思いつめたような表情で、なにやら考えごとをしているように見える。夕飯後の秋穂が甘えた声で「パパー、宿題教えて~」とお願いしたときも、新一は無視して自室に閉じこもっていた。
そんな新一を見ていると、私はなんだか罪悪感を覚えてしまう。私が余計なことを言ったばっかりに、新一をさらに悩ませてしまった。ただでさえ家のことや仕事のこと、子供の進学のことなど、栗山家に関する様々な事柄でがんじがらめになっているのに、また新たな荷物を背負わせてしまった。
だから、私も新一に話しかけづらくなった。生活上どうしても必要なことは訊くけれど、その返事も「うん」とか「ああ」とかばかりだから、とても雑談できるような空気にはならない。しかも、このところの新一は何日も連続で朝方までの在宅仕事に励んでいる。なにがそんなに忙しいのかはわからないけど、とにかく顔色が悪く、疲労がピークに達していることはありありと伝わってくる。
そうこうしているうちに、例の法事の日がやってきた。
予定では朝八時半に家を出て、車で親戚宅に向かうことになっているため、私は六時半に起床した。誕生日のことなんか、もうとっくにあきらめている。そもそも三十九回目の誕生日なんて、うれしくもなんともない。
隣の布団に新一がいなかったため、もしやと思って新一の部屋をのぞくと、その予感が的中した。不精髭をたくわえた新一が、真っ赤に充血した目でパソコンを見つめている。昨夜、寝る前に見た光景とほぼ同じだ。
しばらく呆然と突っ立っていると、新一が赤い目を向けてきた。
「おはようさん」明るい声で挨拶してくる。最近にしては珍しい。
「寝てないの?」
私が訊ねると、新一は顔だけでうなずいて椅子から立ち上った。大きな欠伸をしながら両手を上げ、気持ち良さそうに伸びをする。
「けど、徹夜したおかげで全部終わったわ」
「編集?」
「うん、明後日オフラインのプレビューがあんねんけど、今日は法事やらなんやらで丸一日つぶれるから、それまでに終わらせとかなあかんと思って」
「え? 今日も法事終ってから仕事するって言ってたじゃん」
私が目を丸くして言うと、新一の視線が宙に逸れた。顎からモミアゲにかけて生い茂った不精髭を撫でながら、照れたような笑みを浮かべて言う。
「今日は亜由美の誕生日やろ。法事終ったら、どっか行こうよ」
私は言葉を失った。ただただ驚いて、新一を見つめる。
「なんやねん、その微妙な顔は。嫌なんか?」
「いや……」
「言っとくけど、亜由美に気い遣ったわけちゃうからな」新一は子供みたいに口を尖らせた。「俺だって、たまにはパーッと憂さ晴らししたいねん」
うれしいんだけど、素直に喜べなかった。とりあえず「ありがとう」と小声で礼をしたものの、新一に対する申し訳なさが大股歩きで襲ってくる。
よく考えてみたら、新一はいつだってそういう人だった。無理難題に反発するよりも、まずはそれを受け止めて解決を図ろうとするから、時として背負いすぎてしまう。がんばって解決できることなら、がんばろうとしてしまう。
誕生日のことなんか言わなきゃ良かった――。私は口の中でつぶやいた。新一はここ数日ずっと無理をしていたのだろう。そうまでして、時間を作ってくれたのだろう。ありがたいんだけど、ありがたいからこそ胸が苦しい。
「とりあえずシャワー浴びてくるわ」
新一はそう言って風呂場に向かった。目の下に大きなクマがあるけれど、表情は久々に晴れやかだった。私にとっては、それがせめてもの救いだった。
シャワーを終えると、新一はさっさと喪服に着替えた。その後はダイニングの食卓でブラックコーヒーを飲みながら、新聞の朝刊に目を通し始める。
私はキッチンで朝食の準備を進めた。お米を炊き、味噌汁とハムエッグ、ウィンナーのケチャップ和えを人数分こしらえ、食卓に並べる。
七時半ごろ、孝介と秋穂が起きてきた。二人とも食卓に並べられた朝食を見るなり、黙って食らいつこうとする。「こらっ、なんか言うことあるでしょ」私が注意すると、二人の「おはよう」「いただきます」が輪唱のように聞こえた。
ほどなくして、背筋に緊張が走った。
二階から階段を降りてくる何者かの足音、廊下がきしむ音、それらがジョーズの登場音楽のように少しずつ大きく迫ってきて、周囲の空気を一変させる。ふと新一に目をやると、あきらかに表情を強張らせていた。
ダイニングに喪服姿の義父があらわれた。
大きな体と浅黒い肌が、いつもより目についてしまう。蛇がからみあったような独特のウェーブヘアを今日も整髪料で固め、オールバックにしていた。
「おはようございます」
私が挨拶すると、義父はぶっきらぼうに「おう」と答えて、険しい顔で新一をにらみつけた。孝介と秋穂も「おはよう」と言ったけど、それには答えない。
「おい新一、これなんや」義父が小さな茶封筒を差し出した。
「え?」
「これの振り込みのあれ、いつかわかっとんか?」
新一の顔がみるみる蒼褪めていった。なにかに気づいたのか、あきらかに動揺した様子で新聞をとじる。私はなんのことかさっぱりわからず、事態を見守ることしかできなかった。あの茶封筒がどうしたというのか。
ほどなくして、ようやく新一が声を発した。
「いや、その……」
けれど、要領を得ないうちに義父が言葉を重ねる。
「おまえ、これの期限、七月やないか」
「ああ」
「そんなもんを十一月の今んなってあれして、どういうつもりや?」
「いや……」新一はなにか考え込むようにいったん視線を落としたあと、不服そうに首をひねった。「だいぶ前にわたしたと思うけど……」
「もろてへんわ、アホ」
「い、いや、わたしたはずやけど」
「じゃあ、いつや? いつわたしたんや?」
「いや、それは覚えてへんけど……」
「なにをごまかしとんじゃ、アホが!」義父が大きな怒鳴り声を発した。そのまま独特の巻き舌口調で続ける。「自分であれしたことを覚えてへんって、そんな言い訳のあれが通るとでも思っとんのか、おう!?」
「い、言い訳ちゃうって。だいぶ前やから覚えてへんねん!」
「嘘つくな、ボケ! だいぶ前なんやったら、なんでこれまで見いひんかったんや! なんで急に俺の机のあれに出てきたんや!」
「そ、それは知らんけど……俺は絶対にわたしてるって」
「ああん!?」
「だ、だから……いつもみたいに納付書が届いたから、俺はそれをお父さんにわたすことになってるから……。だ、だから、それはだいぶ前にわたしたはずなんやけど、それがいつかまではほんまに覚えてなくて……」
「ガタガタ抜かすな! どうせコソコソ置いたんやろが!」
義父がこの日一番の怒鳴り声を挙げた。私は思わず背筋を伸ばす。孝介と秋穂も目を丸くして、互いに顔を見合わせていた。
「ったく、コソコソしやがって。情けないのう」
今度は吐き捨てるような、嘆息まじりの物言いだった。義父は茶封筒をポケットに押し込み、鼻を鳴らしながらダイニングを横切ると、反対側のドアを開けて奥の仏間に向かった。ひんやりした空気が吹き込んできた。
嵐が去ったあとのダイニングは、奇妙な静寂に包まれていた。
新一は魂の抜けたような生気のない表情で、食卓の椅子にもたれていた。孝介と秋穂は新一をちらちら見やりながら、気まずそうに体を縮めていた。
私は無意識に手のひらをかきむしっていた。事情はわからないけど、新一はもちろん、孝介と秋穂のことも心配でたまらない。我が子の目の前で、父親にこっぴどく怒鳴られた新一の気持ち。祖父に怒鳴れる父親の姿を、まざまざと見せつけられた孝介と秋穂の気持ち。ああ、胸が痛い。首も背中もかゆい。
しばらくすると、奥の仏間からお鈴の音がかすかに聞こえてきた。
「おい、はよせえ!」続いて義父の声も飛んでくる。
私はハッと我に返り、急いで炊飯器を開けた。炊き立てのお米をよそい、お仏飯として仏壇に供えるのは、栗山家の毎朝の風習だ。
「すいません、お待たせしました」
お仏飯の準備を終えると、私はそれを仏間に運び込んだ。義父は仏壇の前で正座して、両手を合わせて黙祷を捧げている。線香の匂いが鼻をくすぐった。
義父の心を乱さないように黙ってお仏飯を供えた。
その瞬間、後方からガラスが割れたような音が響いた。
ガシャーン、ガシャーン――! 立て続けに聞こえてくる。
「きゃああああ!!」秋穂の悲鳴が聞こえた。「お父さん、やめて!」孝介の叫び声も重なる。ガタン、ゴトン――! なにかわからない物音まで続いた。
「新ちゃん!?」私は咄嗟に口走った。
「ほっとけ!」
義父は制止したものの、私はそれを無視して駆け出した。
秋穂の悲鳴はいつのまにか泣き声に変わっていた。
ダイニングに戻ると、目を疑うような光景が広がっていた。
床のいたるところに食器の破片が飛び散り、棚のガラス窓も割られていた。椅子があちこちに転がっているから、きっと乱暴に投げ飛ばされたのだろう。
秋穂は食卓の下に入り込んで泣きじゃくっていた。孝介は腰が抜けたように床にへたり込みながら、呆然とした表情で一点を見つめていた。
その視線の先には、新一のうしろ姿があった。
新一は壁側に正対して立ち尽くしたまま、黙ってうつむいていた。肩を上下に揺らしながら息を切らしている。両手の拳が赤黒く染まっていた。どこか現実味のない、映画みたいな鮮血がぽたぽたと床に落ちていく。
「新ちゃん……」
私がおそるおそる声をかけると、新一の言葉がかすかに聞こえた。
「……なんかしてへんわ」
「え?」よく聞き取れない。「新ちゃん、なんて言ったの?」
「コソコソ……」
「コソコソ?」
「なんか……してへんわ。……コソコソなんかしてへんわ」
「新ちゃん」
「俺はコソコソなんかしてへん。俺はコソコソなんかしてへん」
「新ちゃん、わかってるよ」
すると、新一が絶叫とも言える大声を挙げた。
「コソコソなんかしてへんわあああ!」
その後も同じ言葉を繰り返しながら、乱暴に頭髪をかきむしった。
「コソコソなんかしてへんわああ! コソコソなんかしてへんわああ! コソコソなんかコソコソなんかコソコソなんか……絶対してへんわああ!」
「し、新ちゃん、わかったから!」
私はたまらず新一に歩み寄った。けれど、新一が赤い目を大きく見開き、私のことをにらみつけてきたので、不覚にも足がすくんでしまう。
新一は完全に取り乱していた。頭髪だけでなく自分の顔もかきむしると、顔のあちこちに赤い血痕が付着して、いよいよ不気味になっていく。
「俺は……俺は……いろんなものを捨てて大阪に戻ってきたんや。堂々と、堂々と……この家を継ごうって、子供らのことを優先しようって……」
「わかってる、わかってるよ」
「俺はこんな思いをするために戻ってきたんちゃう。絶対コソコソなんかしてへん! コソコソするために、戻ってきたんちゃう!」
私は黙って唇を噛んだ。かける言葉が見つからない。
新一が繰り返す「コソコソなんかしてへん」という言葉。なぜそこにこだわっているのか、私にはわからない。わからないけど、新一が堂々とがんばってきたのは確かだ。新一は栗山家に関するあらゆる事柄を馬鹿正直なくらい正面から受け止め、必死で戦ってきた。私はそれを一番近くで見てきた。
「新ちゃん、手から血が出てるよ。ガラスかなんかで切ったの?」
私は再び新一に歩み寄った。食卓の下から秋穂のすすり泣く声が聞こえる。
「ちょっと見せて」新一の腕をつかみ、血まみれの手を持ち上げた。
ところが、新一はそんな私の手を振り払った。血しぶきが飛び散り、私は思わず目をしかめる。「お父さん、やめて!」背後で孝介が叫んだ。
ガツン――! 鈍い音が耳に響いた。
見ると、新一が壁を殴っていた。血まみれの拳で、何度も何度も壁を殴り続ける。白い壁にみるみる広がっていく赤い血痕。背筋がゾッとした。
「新ちゃん、やめて!」
私は新一の背中を羽交い絞めにして、なんとか壁から引き離そうとした。けれど、新一の力に敵うわけがなく、いとも簡単に振りほどかれる。
新一は頭部を壁に打ちつけた。脳が心配になるくらい、何度も打ちつけた。
「お願いだから、やめて! おかしくなっちゃうよ!」
すると、そこに義父があらわれた。
「おい、なにしとんじゃ!」
義父はいつもの調子で一喝したものの、それでも新一の興奮はおさまらなかった。「うるさい、近寄んな!」珍しく義父に対してまで声を荒らげる。
新一の赤く腫れあがった額、血まみれの顔と拳、くしゃくしゃに歪んだ悲痛な表情。それらを目にした瞬間、さすがの義父からも動揺の色が見えた。
「俺はコソコソなんかしてへんぞ! 絶対してへんぞ!」そこで新一が咳き込んだ。苦悶の表情を浮かべたのち、力を振り絞るように続ける。「なんで四十にもなって、そんな言われ方せなあかんねん! 俺はそんなに情けない息子か! そんなにアホなボンクラ息子か! そんなんやったら大阪に呼び戻さんかったら良かってん! 俺のことが嫌なんやったら、親子の縁を切ったら良かってん!」
「お、おい、落ち着け!」義父が言うと、新一は「ああああああ!」と言葉にならない奇声を発した。天井が揺れそうなほどの大声だった。
もう誰も手がつけられなかった。
新一は周囲に転がる椅子を片っ端から蹴飛ばし、食器を乱暴に投げ飛ばし、壁に拳や頭部を打ちつけた。私はもちろん、義父の声も届かない。地震がおさまるのを待つように、ひたすら耐えるしかなかった。
それから、どれくらいの時間が流れただろうか。
新一の暴走がおさまることを願って、ひたすらひたすら耐え続けたものの、さすがに精神の限界を感じ始めてきた、ちょうどそんな頃合だった。
「し、しんいち……」
ダイニングに義母があらわれた。
その瞬間、新一の動きがぴたりと止まる。
私は絶句して、むせ返りそうになった。義母は壁に手を添えながら、ダイニングの入口付近に自力で立っていた。「おばあちゃん!」孝介があわてた顔で義母に駆け寄る。小さな体で義母の腰のあたりを支えた。
「しんいち」
義母が繰り返した。今度はさっきよりもはっきりした声だった。「しんいち」義母はもう一度、息子の名前を呼んだ。「しんいち」もう一度。
きっと、それ以上の言葉が出てこないのだろう。ただ息子の名前を呼ぶことしかできないのだろう。義母は孝介の助けを借りてよちよち歩き、少しずつ新一に近づいていく。いかにも脆弱そうな足取りに、なぜか強大な力を感じた。
新一はすっかり気の抜けた表情になっていた。さっきまでの暴動が嘘かのように目尻をだらしなく下げ、頬をたるませ、つぶやくように言う。
「お母さん……」
次の瞬間、新一は膝から崩れ落ちた。糸の切れた操り人形みたいだった。
義母はへたり込む新一の前でゆっくり腰を落とした。
そして、右手をそっと新一の肩に添える。
ただそれだけだった。ただそれだけのことで、新一が少し落ち着いたことはなんとなくわかった。いつのまにか秋穂も泣き止んでいた。
私は黙って洗面所に向かった。古くなったハンドタオルを何枚か適当に持ち出して、再びダイニングに戻る。まずは血を止めなければ。
結局、この日の法事は義父だけが参加することになった。
私はダイニングの掃除をしたあと、新一を連れて病院に行き、孝介と秋穂、そして義母は家に残って留守番をすることになった。
新一は両手の拳をガラスで切っただけでなく、右手の甲を骨折していた。傷を針で縫い、骨折の整復手術を受け、その後は病室で死んだように眠り続けた。頭部にも複数の傷や腫れがあったものの、幸い脳に異常は見つからなかった。
担当の外科医に事情を話すと、その外科医は今日のところは入院して、明日からは精神科へ転院するよう勧めた。極度のストレスがパニックにつながり、それによって自傷行為を生んだのであれば、そのストレスの原因、つまり義父としばらく距離を置いたほうがいい。とりあえず数日程度なら、明日からでも入院できる病院を紹介するので、そこでゆっくり今後のことを考えるべきだという。
私もそのほうが良さそうだと思ったので、いったん家に戻って入院の準備をした。新一の衣類をまとめ、好きそうな本をいくつかバッグに詰め込んだ。
夜になって、そろそろ新一も起きただろうと思って再び病院に向かった。義父は法事後の酒席が長引いているらしく、まだ帰ってこない。
新一は六人部屋の一番右奥のベッドで仰向けになっていた。
「新ちゃん」
私が話しかけると、新一の視線が動いた。そして、上体をゆっくり起こす。両手には包帯、額にはいくつかの絆創膏。痛々しい姿だった。
「具合はどう? まだどっか痛い?」
新一は首だけでうなずいた。私は他の患者が見えないようにベッド周りのカーテンを閉めて、そばのパイプ椅子に腰かけた。
「法事は?」新一が切りだした。「……法事はちゃんと終わった?」
少し面食らった。この期に及んで、そこを気にするとは。
「お義父さんだけ参加することにしたの。……朝のこと覚えてないの?」
「途中からはあんまり記憶にない」
「私が病院に連れてきたのは?」
「ああ、それはなんとなく……」
「じゃあ、お義母さんのことは?」
「それもなんとなく……」
「そう」
「けど、きっかけは覚えてるよ」
「きっかけ?」
「うん、パニックになったきっかけ……。しょうもないことやけど」新一が口の端に笑みをたたえた。「お父さんが言うてたんは俺の税金のことやねん。納付書の振り込み期限がとっくに過ぎてるからって、いきなり怒鳴ったんよ。まあ、基本的に真面目な性格やから、期限のことには昔からうるさかってん」
私もなんとなくわかっていた。新一の税金事情は、ずっと変な話だと思っていた。義父の節税対策として収入を分散するのはわかるけど、それによって新一が自分の所得を把握できなくなっているから不都合が起きる。新一の実質的な年収は三百万円台なのに、各種の税金と保険料を合わせると計二百万円以上にもなるため、栗山家ではそれを義父が払うことになっている。しかも、うちは所得制限によって児童手当ももらえない。実感としてはギリギリの経済状態なのに。
「俺、納付書はとっくにわたしたって本気で思っててん。けど、途中でわたし忘れてたことに気づいて、めっちゃ焦ったんよ。……ほんま情けない話やで。あかん、お父さんにしばかれるって、子供みたいに本気でびびったんよ」
「ああ」私は曖昧な相槌を打った。
「だから、たぶんお父さんの机の上に納付書をあわてて置いたんやと思う。いつ置いたのかはほんまに覚えてへん。だけど、俺が悪いねん。納付書が届いたらすぐにわたせって、お父さんには前々から言われてたし」
そこで新一は窓の外に目をやった。街灯に照らされた銀杏の木が見える。
「けど、コソコソしてるって言われたのは、なんかショックやったわ」
新一が唇を噛んだ。
「うん、とにかくショックやった……。全身の力が抜けるくらい、今までの自分がすべて否定されたみたいに……なんか……ショックやった」
私はずっと新一の目を見つめていた。
「なあ、しょうもないことやろ? こんなん他人が聞いたら笑われんで。なにを甘えたことを言うてんねんって、誰にも理解されへんに決まってるわ」
新一はそこまで言うと黙り込んだ。銀杏の木を見つめている。
しばらくの静寂が流れた。重い空気が底に沈んだような気がした。
二、三分ほどたったころ、私は勇気を出して口を挟んだ。
「私は……理解できるよ」
その瞬間、新一の目が少しだけ丸くなった。
「新ちゃんはお義父さんに支配されてる気分になるのが嫌なんだよね」
「支配?」
「うん、精神的な支配。税金のことも、事情を考えたらお義父さんが払うべきお金をお義父さんが払うっていう、ただそれだけのことなのに、その納付書を新ちゃんからお義父さんにわたすシステムになってるから、新ちゃんがお願いしてるみたいになっちゃうし、『お義父さん、ありがとうございます』って気分にもなっちゃう。だから、新ちゃんは納付書をわたすのさえ億劫になるんでしょ?」
「うん、なんか情けない気分になる」
「だよね。家族の間で支配関係が生まれてるもん」
「ああ」
「そりゃあショックだと思うよ。子供たちの前でいきなり怒鳴られて、コソコソしてるなんか言われたら……。新ちゃんが東京を離れたのだって、大きな決断だったもんね。大阪に戻ってきてからも、ずっと休みなくがんばってたもんね」
私がそう言うと、新一が脱力したように頭を垂れた。
「大丈夫。新ちゃんはコソコソしてないよ」
新一はうつむいたまま鼻をすすった。
「正面から栗山家にぶつかってたと思うよ」
いつのまにか、ベッドのシーツに水滴が落ちていた。
「ごめんな、亜由美……」新一が震えた声で言った。
「あやまることじゃないよ」
「ごめん。俺……やっぱ無理やわ」
「え?」
「栗山家は……俺には無理やわ」
そこで新一が顔を上げた。腫れぼったくなった目で宙を見つめる。
「ギブアップ……俺の負けや」
「新ちゃん……」
「亜由美は強いな。ほんますごいよ、尊敬するわ」
「そんなことないよ。だって――」
私はそこで言葉に詰まった。鼻の奥がツンとする。
「だって――」もう一度言い直したけど、うまく続かない。「だって――」
新一は不思議そうな表情で私を見つめていた。私はなんだか無性に恥ずかしくなって、窓の外に視線を逸らしつつ、最後の言葉を振り絞った。
「私も……無理だもん」
その瞬間、張りつめていた心の糸が、音を立てて切れてしまったような気がした。もうどうでもいい。あらゆることがどうでもいい。とにかく疲れた。
私は声を出して泣いた。嗚咽を漏らして泣いた。
「誕生日おめでとう」
新一の優しい声がかすかに聞こえた。
(第15回 了)
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■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■