その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第十六話
最低な気分だ。これまで必死に耐えてきたことがすべて崩壊したような、大阪での長い戦いに敗北したような、そんなむなしさを感じてしまう。
正直、新一にだけはああいうことを言ってほしくなかった。俺には無理だと言ってほしくなかった。あの人でも無理なんだったら、私はいったいどうなる。栗山家の長男が栗山家に白旗を上げてしまったら、その嫁はどうなる。
新一の見舞いを終えて病院を出ると、私は途方に暮れた。
このまま逃げちゃおっかな――。口の中でつぶやく。許されるなら、私だって入院したい。しばらく現実から離れて、体と心を休めたい。
だけど、今の私には無理な話だ。早く家に帰らないと、孝介と秋穂が待っている。時刻は午後八時を回ったというのに、まだ夕飯の支度ができていない。
重い足を動かして、地元の駅に戻った。近くのスーパーに立ち寄って、食材を買い込む。準備の時間がかからないから、今夜は鍋にしよう。今の私を突き動かしているのは、孝介と秋穂の母親であるという責任感だけだ。
買い物後、我が家の前に辿り着くと、ますます気分が沈んだ。
錆だらけの門扉と石造りの塀。視線を上げると、古めかしい本瓦葺の屋根が目に飛び込んでくる。全体的に少し左に傾いた、大正建築の日本家屋だ。
すっかり見慣れたはずの家なのに、今日はいつもとちがう印象を抱いた。どこも変わっていないのに、なんとなく我が家じゃない気がする。
きっと新一がいないからだろう。新一がいないということは、私にとって我が家が我が家でなくなることを意味する。義父母の家に居候させてもらっているような、そんなよそよそしい感覚になってしまう。
幸いだったのは、義父が法事後の酒席からまだ帰っていなかったことだ。今は義父の顔を見たくない。義父と会っても、なにを話していいかわからない。
孝介と秋穂は口数が少なく、見るからに元気がなかった。当然だろう。実の父親のあんな凄惨な姿を目の当たりにしたのだ。小学生には酷すぎる。
「お父さんね、拍子抜けするくらい元気だったよ。超ピンピンしてた」
私は詳しい話を後回しにして、とにかく二人を安心させるよう努めた。
「今日のところは入院するけど、たぶんすぐ退院できるんじゃないかな。お笑いのテレビ見ながら手え叩いて笑ってたもん。心配して損しちゃったー」
わざと冗談めかして言ったけど、二人の表情は冴えなかった。
孝介いわく、義母も体調がすぐれず、寝室で横になっているという。
「お義母さん、遅くなりましたけど夕飯にしますよ」
私が寝室をのぞくと、義母の寝息だけが聞こえてきた。電気も消えている。
結局、義母を起こさず、三人で水炊きをつつくことにした。
けれど、孝介と秋穂は依然として元気がなく、箸もあまり動かさない。私は「勉強の調子はどう?」とか「新しいお友達はできた?」とか、いろんな質問をぶつけてみたけれど、そこから会話が広がることもなかった。
二人とも普段の半分くらいしか食べなかった。さっさと「ごちそうさま」と言って、子供部屋に引きこもる。私はそれを咎めることができなかった。咎められるわけがない。二人をこんな状態に追い込んだのは、私たち両親だ。
長く重たい夜だった。普段なら、孝介と秋穂が風呂に入って寝静まったあとは私にとって待望の自由時間で、テレビを見たり本を読んだりして気楽に過ごすのだが、この日はそこに時間があることが憂鬱だった。
午後十一時に差しかかったころ、玄関のドアが開く音がした。
私は思わず背筋を伸ばす。義父だ、義父が帰ってきた。ああ、どうしよう。
そのとき、玄関から女性の声が聞こえた。
「お父さん、ついたで。ねえ、歩ける?」
あ、典ちゃんだ。一瞬でわかった。新一の六歳下の妹、典子。当然、今日の法事にも出席していたのだろう。頭が下がる思いだ。
「亜由美ちゃーん!」
典ちゃんの声に反応して玄関に顔を出すと、泥酔した義父の姿が目に飛び込んできた。なんとか立っているものの、足はふらついていて顔は真っ赤だ。典ちゃんは義父の背中をさすっていた。二人とも喪服のままだった。
「ごめん、亜由美ちゃん。ちょっと手伝ってほしいねん。お父さん、めっちゃ酔ぱっらってもうて、まっすぐ歩かれへんみたいやから」
典ちゃんがそう言うので、私も加勢すべく義父に歩み寄った。
「お義父さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫や、アホ! ほっとけ!」いきなり義父に怒鳴られた。酔っていても相変わらずだ。「どけ、アホ! どっちゅことない、一人であれできるわ!」
「ちょっとお父さん、亜由美ちゃんにそういう言い方はあかんって」
典ちゃんがたしなめてくれたものの、義父は「知るか!」と吐き捨て、一人でよろよろ歩き出した。私は立ち尽くすことしかできない。
義父は壁に手を添えながら歩き続け、ゆっくり階段をのぼっていった。二階には義父の寝室がある。今夜はこのまま寝るつもりだろう。
「珍しいね、お義父さん。法事でかなり飲んだの?」
私が訊ねると、典ちゃんは首をかしげた。
「いや、そこまで飲んでへんはずなんやけどね。ビールも焼酎も、お父さんにしては普通の量やったと思うけど、なんか今日は変やったんよ」
「ああ、やっぱり。……お義父さん、なんか言ってた?」
「なんかって?」
「新ちゃんのこととか」
すると、典ちゃんが少し口角を上げた。
「実はわたしもそれが気になっててん。お義父さんからちょろっと聞いたんやけど、ようわからんかったから、それで実家に寄ったのもあって」
その瞬間、私はなんというか、少し救われた気分になった。
典ちゃんは私より五歳も下だけど、義妹というより友達みたいな感覚だ。典ちゃんも長男の嫁として旦那さんの両親と同居しているから、言葉で説明するのが難しい複雑な事情もわかってくれる。同じ目線で共感し合うことができる。
「ねえ、ちょっとファミレスでも行かない?」
私が思いつきで言うと、典ちゃんは子供みたいに白い歯を見せた。
「いいねー。私も話したいこといっぱいあんねん」
「家は帰んなくて大丈夫なの? 子供のこととか」
「ああ、今日はええねん。お父さんの介抱で遅くなるわって言うたら、向こうのお義母さんが子供らの寝かしつけとか全部やってくれてん」
「そうなんだ。ありがたいね」
「だから今夜はフリーやねん。しかも、けっこうお腹へっててさ」
「食べてないの?」
「いや、食べたんやけど、オッサン連中の宴会の後片付けがめっちゃ大変で、動きまくってたから、胃袋のガソリン使い果たしたんやと思うわー」
典ちゃんはおどけるようにお腹に手を当てた。私とちがって明るい子だ。
「ごめんね、私が法事をパスしたから人手が足りなくなったんでしょ」
「うん、めっちゃ戦力ダウンやった」
「あはは」あまりにカラッと言うので、思わず笑ってしまう。
「ファミレスおごってくれたら許したるけどー」
「もちろんっ」
なんだか早くも元気が出てきた。深夜ファミレスなんて久しぶりだ。
典ちゃんの運転する車で、近くの環状道路沿いのファミレスに入った。
深夜になると、ここは長距離トラックのドライバーたちのオアシスになるのだろう。店内にいるのは、いかにもトラック野郎といった男性ばかりだった。
「なるほどなー。だいたい状況はわかったわ」
私が事情を説明すると、典ちゃんは納得した様子で言った。ハンバーグステーキとグリルチキンのセットを数分でたいらげたあと、二杯目のロイヤルミルクティーを飲んでいる。大食いなのに細身だから、つくづくうらやましい。
「お兄ちゃん、よっぽどきつかったんやろうね。珍しいもん、そういうの」
「うん、あそこまで暴れんのはね」
私は白ワインを舐めるように飲んだ。典ちゃんが車で送ってくれると言ったから、甘えさせてもらった。誕生日だって、まだ数十分は残されている。
「いや、暴れたのが珍しいって言うてるんちゃうよ」
「え?」
「だって、お兄ちゃんってちょっとした癇癪やったら、ちょくちょく起こしたりするやん。基本、‘気い遣いい’で溜め込みやすいタイプやし」
「まあ」
「だから、そのあとのほうが問題なんよ」
「そのあと?」
「お兄ちゃんが自分からギブアップすんのって、めっちゃ珍しいで」
典ちゃんの言葉に、私はハッとなった。
確かにそうだ。新一が自分から無理だと言ったのは初めてかもしれない。いくら仕事で無茶な要求をされても、いくら理不尽な生活を余儀なくされても、これまでの新一はそれらを馬鹿正直なくらい素直に受け止めてきた。義父との軋轢なんて、嫌だったら反抗すればいいだけのことなのに、新一はなにかに憑りつかれたみたいに「感謝」という言葉を繰り返して、それと向き合ってきた。
けれど、今回ばかりはついに白旗を上げた。あの新一でも、この大阪での生活は無理だと言った。だからこそ、私は余計にショックを受けたのだろう。
「今日の法事のときね、お父さんが言ってたんよ」典ちゃんは顔のホウレイ線を両手で伸ばしながら続けた。「新一がまた癇癪を起して暴れよったって」
「それだけ?」
「いや、なんかいろいろ言ってたよ。税金の納付書がどうこうとか、コソコソしてるもんをコソコソしてるって言うことのどこが悪いんやとか……。けど、お父さんってあの調子で言葉が下手やから、あんま意味わからんかってん」
「まあ、そうだろうね。お義父さん、心配してた?」
「うーん、どやろ。あれだけ酔っぱらったってことはお父さんなりに弱ってたんかもしれんけど、口では相変わらずやったよ。だって、わたしがお兄ちゃんとちゃんと話し合ったほうがええんちゃうって言ったら、鼻で笑ってたもん」
「笑ってた?」
「うん、そんなたいしたことちゃう、新一が謝ったら終わりや、って」
呆れた――。私は思わず溜息をついた。義父の鈍感さに愕然としてしまう。自分の息子が血を流して暴れているのを見て、どうしてそこまで楽観的でいられるのだろう。どうしてそこまで事態を単純化できるのだろう。
「だから亜由美ちゃんに詳しく聞きたかってんけど、そういうことか。あー、すっきりしたー」典ちゃんはそう言うと、新一に似た丸い目で宙を見つめた。「そっかー、あのお兄ちゃんでも無理って言っちゃったかー。そっかー」
「なんかショックでしょ」
「ショック? わたしは安心したけど」
「え?」
「だって、体は大丈夫だったんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら安心かな。ほら、お兄ちゃんってほっといたらどこまでも我慢しそうな、そういう危うさみたいなんない? 正直、わたしはそういうとこを見たないんよ。だって悲壮感があるくせに前向きな人って、なんかこっちまでプレッシャーを感じてまうやん。わたしまでがんばらんとあかんのちゃうかなって」
「ああ」妙に納得した。私なんかまさにそうだ。新一が耐えている以上、その妻である私が先に壊れちゃダメだって、ずっとそう思っていた。
「けど、あのお兄ちゃんでもギブアップするんやって思ったら、わたしはちょっと楽になったっていうか」典ちゃんはそこで少し首をひねった。「うーん、うまく説明でけへんなあ。なんていうんやろ。……亜由美ちゃん、わかる?」
「わかる気がする」咄嗟に口をついた。「たぶん、あれでしょ。新ちゃんが無理って言ったことで、自分もそう言っていいんだとか、がんばらなくてもいいんだとか、そういう解放されたような気持ちになれたってことじゃない?」
「そう、そんな感じ!」
典ちゃんが指を鳴らした瞬間、私の中でなにかが動いた気がした。
新一のギブアップ宣言は確かにショックだけど、それによってある種の終戦を迎えたのだと考えたら、両肩が不思議なほど軽くなった。そうか、私はもうがんばらなくていいんだ。もう我慢しなくていいんだ。新一で無理なら、私なんか無理に決まっている。それでいいんだ。投げ出したっていいんだ。
「もうええんちゃう? 無理して栗山家を継ごうとせんでも」と典ちゃん。「だいたい、お父さんとお兄ちゃんがうまくやってけるわけないんよ。二人のどっちが悪いとかじゃなくて、人間の種類がまったくちがうんやもん」
「ああ」
「お父さんって基本的には真面目で仕事熱心やし、別に悪い人じゃないと思うねん。ただ異常に頭が固くて世界も狭いから、他の価値観を受け入れられへんだけやねん。だって栗山家の地盤を素直に継いで、何不自由ない暮らしをしてきた人やで。そこに成功体験があるから、息子に押しつけてまうんやろうね」
「うん、お義父さんって人と意見が合わなくても絶対ゆずらないもんね」
「ましてや外では社長やから、いつも周りがゆずってくれるやろうし」
「けど、それを家庭に持ち込まれても……」
「そう、それ! お父さんって家でも社長なんよねー」典ちゃんがしたり顔で言った。「社員はそれで動くやろうけど、お兄ちゃんに社長風を吹かしたら、そらぶつかるって。ただでさえ、お兄ちゃんは東京のテレビ業界にいた人やもん」
「それ言えてるっ」私もだんだん興奮してきた。「新ちゃんとお義父さんって、これまで見てきた景色とか経験してきたこととかがちがいすぎるのよっ」
「そうそう、水と油より混ざり合わんと思うで」
「そうそう!」
「そうそう!」
典ちゃんと意見が一致して、素直にうれしかった。愚痴や悩みを誰かと共感し合うことを否定する人もいるけれど、私はそんな強い人間じゃない。ネガティブなことを吐き出していると、なぜか楽しい気分になれる。お酒も進む。
私は四杯目の白ワインに口をつけた。いつのまにか三十九回目の誕生日はとっくに終わっていた。最初は私ばっかり飲んでいて典ちゃんに申し訳なかったけれど、途中で典ちゃんがホットケーキを頼んだので安心した。今夜は祭りだ。
「亜由美ちゃんさあ、今の自分が幸せやって絶対言われへんやろ?」
不意に典ちゃんが訊いてきた。私は反射的に首を縦に振った。
「だったら大丈夫やで。まだまだ前向きやん」
「前向き?」
「たぶん人間ってね、未来が今より良くならないってあきらめたときに、今の自分は幸せやって言うようにできてるんやと思うねん。だって、そう自分に言い聞かせて、幸せのハードルを下げないと、やっていかれへんやん」
典ちゃんはそこで息を吐くと、目を伏せながら続けた。
「わたしも義理の親と同居してるから大変なことはあるけど、だけど未来を考えたら、今の暮らしが大きく変わるとは思われへんねん。旦那はジジババとうまくやってるし、子供たちも特に問題ないし。だから、わたしは今が幸せやって思うようにしてんねん。今より大きなプラスはないやろうから、それやったら大きなマイナスがなければ幸せやって思うねん。現状に満足するのが一番やん」
私は相槌を打つことさえできなかった。ワインのせいかどうかはわからないけど、なんとなく頭がボーっとして、ただただ典ちゃんを見つめ続けた。
「だけど、亜由美ちゃんはまだ未来がどうなるかわからへんやん。夫婦の判断次第で右にも左にも転ぶやん。現状を変えられる可能性を感じてるからこそ、亜由美ちゃんは今が幸せじゃないって思うんちゃう?」
典ちゃんの言葉が強く印象に残った。胸の中がざわざわする。私はグラスに半分以上も残っていた白ワインを一気に飲み干した。五杯目を注文する。
結局、深夜二時過ぎまでファミレスに居座った。
途中から酔いが激しくなってきたからか、最後のほうはどんな会話をしたのかあまり覚えていない。白ワインを全部で何杯飲んだのかも覚えていない。
翌日、新一は精神医療専門の病院に移った。義父は昨晩あれだけ酔っていたにもかかわらず、今朝もいつも通り出勤し、いつも通り午後七時に帰ってきた。顔色も別に悪くない。足取りもしっかりしている。私なんか、いまだに二日酔いで少し気持ち悪いというのに、なんという六十八歳だ。
義父が二階に上がったので、私はそれを追いかけた。できれば今は義父と話したくないけれど、新一のことは報告しておかなければならない。
「お義父さん」
二階の廊下を歩く義父に背後から話しかけた。すぐさま新一の転院について事情を説明すると、義父はさすがに動揺の色を見せる。
「なんで精神科なんかにあれせなあかんねやっ。新一はあれちゃうぞ!」
「外科の先生にすすめられたんですよ。心を休めたほうがいいって」
「それやったら家で休んだらええやないか。なんで精神科みたいなあれに入らなあかんねん。そんなあれを勝手に決めて、なにを考えとるんや!」
「新ちゃんは納得してましたよ」
「俺は聞いてへん!」
「新ちゃん、四十歳ですよ。転院くらい自分で決めますって」
「せやけど、精神科っちゅうのはなんぼなんでも……」
「しょうがないですよ」
「ったく、それやったらあれや。他には絶対言うたらあかんぞ」
「は?」
「精神科みたいなあれが近所に知れたら、どんだけ傷んなるかっ」
義父は吐き捨てるように言った。私はなんだかゲンナリした。さっきからこればっかりだ。息子を心配するより、精神科のイメージばかり気にしている。古い世代の人は、よほど精神科というものに偏見があるのだろう。
「お義父さん、落ち着いたら新ちゃんと話し合ってほしいんですよ」私は思いきって切り出した。「だって、これからは生活だけじゃなくて仕事も一緒にしていくんですよね? 今の感じのままじゃ無理だと思うんです」
「なんや昨日も典子がそんなこと言うとったけど、あいつが税金のあれを遅れたんが悪いんやろ。話し合いもなにも、謝ったら終わりちゃうんか?」
「いや、そういうことじゃないんですよ」
「どういうことや?」
「税金のことはきっかけにすぎなくて、今の全体的なシステムとか、新ちゃんとお義父さんの考え方のちがいとか、そういうもっと根本的なことです」
「はあ?」
「だから、お義父さんと新ちゃんは性格も考え方もちがうじゃないですか。そういうところを話し合って改めないと一緒にやってけない――」
「アホか!」義父が遮るように語気を強めた。「子供が親に向かって考え方をあれせえとか、そんな話があるか! なにをえらそうなこと言うとるんや!」
ああ、しまった――。勢いあまって義父の地雷を踏んでしまった。こうなったら、まともに頭が働かない。義父の乱暴な口調に萎縮してしまう。
結局、話がまったく進まないまま、その日は過ぎていった。私は一人きりの寝室で深夜の静寂を持て余した。暗がりの中、布団をかぶって目をつむると、まぶたの裏のスクリーンに出会ったばかりのころの新一が浮かんできた。
翌日の午後、新一のお見舞いに行った。新一はベッドで寝ていたけど、私の顔を見るなり「中庭に出たい」と言う。寝ることにも疲れたらしい。
人工芝が敷き詰められた中庭のベンチに二人で腰かけた。今日は十一月下旬にしては暖かく、風もほとんど吹いていない。「ええ天気やなあ」「この調子やと冬はまだ先やな」新一は初々しいカップルみたいに、気候のことばかり口にしていた。私もなんだか新鮮な気持ちになって、相槌にすら戸惑ってしまう。
気候の話も尽きたからか、途中から新一が黙り込んだ。私は必死に話題を探した。もっとも、話さなければいけないことは山ほどあるのだが。
「昨日、お義父さんと話したの」
私が切り出すと、新一の目の色が変わった。待っていましたと言わんばかりの真剣な視線を送ってくる。私は昨日の義父とのやりとりを、できるだけ詳しく再現した。一昨日、典ちゃんと話したことも伝えた。
「そっか……」すべてを話し終えると、新一は小さな声で言った。
「お義父さん、なんにもわかってないと思う」
「そうやろうな。基本的に鈍感やもん。心の機微とかには疎いんよ」
「新ちゃんが謝れば済む問題って、なんか愕然としちゃった」
「いや、ある意味それで済む問題かもよ。お父さんは良くも悪くも引きずらへんから。だから、俺が謝ったら元の生活にすんなり戻ると思うよ」
「それでいいの?」
「いいわけないやん」
「だよね」
「けど、話し合いは無理やろうな。俺、お父さんを前にすると思ってることの半分も言われへんもん。無意識のうちに、お父さんに合わせてまうもん」
「ほんと、新ちゃんってそうだよね。不思議」
「自分でもなんでこんな大人になったんかわからへん。けど、そこを変えられる自信はまったくないから、お父さんとは話し合わんほうがええねん」
「じゃあ、どうする気?」
私はそう言って、新一の横顔を見つめた。新一は手で頬を撫でていた。
また沈黙が訪れた。今度はそれに身を任せることにした。今、新一がなにを考え、この先どうしていこうと思っているのか。私が気になるのはそこだ。
ほどなくして、新一が口を開いた。
「あのさ……。俺、こないだ言うたやん」
「……なにを?」
「もう無理やって」新一はそこで顔を伏せた。「ギブアップやって」
「うん」
「あれからずっと考えてたんやけど、だからといって今後どうすればええんかまではわからへんねん。来年の二月には孝介の受験があるから、このタイミングで東京に戻るなんて現実的には無理やしな」
「うん」
「けど、とりあえず逃げたい」
「逃げる?」
「うん、情けない話やけど、お父さんと一緒に住むのは無理やわ。だから俺と亜由美と子供らで……どっか近場のアパートでも借りんのはどうかなって。小学校の学区さえ変わらんかったら、孝介と秋穂にも影響ないやろうし……」
「お義父さんにはなんて説明するの?」
「そんなん事後報告やろ。勝手に逃げたらええねん」
「お義母さんのことは?」
新一が再び黙り込んだ。溜息をつく。
「なんかもう、引っかかることばっかだよね」
私も溜息をつくと、新一が絞り出すような声で言った。
「そこからも逃げよっかな」
「え?」
「お母さんのことも全部お父さんに任せて」
「ああ」
「もう知らん。ほんまに知らん」新一が頭を振った。「なんかどうでもええわ。なるようになるやろ。とにかく今は逃げたいねん」
新一が冷静じゃないことはすぐにわかった。あらゆることに追いつめられ、判断力を失った結果、その場しのぎの愚かしい案を口走っているだけだろう。
だけど、私は腹をくくった。なんだか妙に爽快な気分だ。
「私はそれでいいと思うよ」
新一の視線を感じたけど、私は見つめ返さなかった。
「逃げたっていいじゃん。がんばらなくていいじゃん」
そう言った瞬間、思わず頬がゆるんだ。あらためて新一を見ると、不思議そうに目を丸くしていた。私はなんだか恥ずかしくなって両手で顔を撫でる。
手のひらのかゆみが、いつのまにか治まっていた。
(第16回 了)
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■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■