あの『バッテリー』シリーズを読んだら、他の作品も読みたくなるだろう。もちろん『バッテリー』に描かれていたのは、本などあまり読みそうにない少年たちで、またその作品のレベルからして本を読み慣れていない子たちにはなかなか難しいと思われるのだが。
それでも子供たちというのは、思わぬ変化や飛躍を遂げることがある。それが子供らを見守る大人たちの楽しみ、というところだろう。『バッテリー』に描かれていた何が琴線に触れたか、猛然と読み出しても不思議ではない。男の子たちは小説などの心理描写に関心を示さないけれど、心理がないわけでない。それを持ち合わせていることを、その本によって初めて気づく、ということもあろう。
男の子たちが心理描写に興味を示さないのは、それが何のためのものかわからないからだ。女の子は子供を産み育てるように期待されていて、それは一人ではできないから、男という他者を捕まえることが使命となるし、だから男や他の女の心理を無視できない。その視点が独り歩きして、子供を産み育てるつもりがなくても心理の観察者となることになる。
『バッテリー』の心理描写が男の子たちにも届く可能性があるのは、それが心理描写のための心理描写であったり、人間関係そのものに価値を見い出したりするものではないからだった。球を投げること、打つこと、捕ること。それが自分たちである以上、自分たちの心理も球に付随して動く。
そしてだからこそ、それは精緻で正確を極める心理描写になる、ということはあろう。肉体と球の動きの方が、漠然とした人の欲望に突き動かされたものなどより、よほど繊細な計算を必要とする。球は嘘をつかず、どんな筋肉の微細な動きにも反応し、その筋肉の動きに心理が影響を及ぼすなら、そのとき初めて心理が現前するのだとしても、それは動かしがたいものだ。
『グラウンドの空』にはしかし、球の動きを中心に神経を張り詰める試合の場面は、ほとんどない。これは少年たちの成長物語であり、ただ彼らは野球をしている。あさのあつこに関するかぎり、もちろんそれはたまたま彼らがやっているスポーツではないし、たまたま著者が詳しくて書ける、というものでもない。
野球の試合という、彼らにとっての最高の精神的瞬間が冒頭ですでに終わっている以上、『グラウンドの空』はある意味、その瞬間を夢見ながら生きている物語である。彼らの成長はそのためのもので、家族のトラブルもそれによって昇華されるべき俗世の悩みに過ぎない。
そこでの彼らの心理は、だからきっぱりと野球に似ている。球の動きのように明確であり、試合のように白黒はっきりさせるためのもののようである。永遠に逡巡するための悩みやわだかまりではない。そこがたとえ大人たちの話をであっても本質的に成長物語であると読めて、いわゆる純文学とは違う。野球のようなきっぱりとした心持ちで生きてゆくこと、それはひとつの夢である。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■