タイトルのインパクトについては、それが逆説に響くからだろう。本文中にもあるが、我々は、「見た目で判断するな」ということを小学校から刷り込まれている。民話にもボロを着た神さまを邪険にしてバチが当たる話や、テレビドラマだって会社のトイレで会った老人が社長だったり、掃除婦が権力者とツーカーだったりというエピソードに事欠かない。
ただ、そういう訓話での “ 見た目 ” とは、社会的なヒエラルキーのどこに属するかという判断を狂わせるもの、として設定されている。それは判断を狂わせる方のたまたまの無知と未熟さに起因するのであって、“見た目” で判断した結果だ、というわけではない。
会社の人事を知らないのは、その者が単に事情に疎いからである。社長にちゃんと挨拶できるのは社長が誰かを知っているからであって、“ 見た目 ” で判断しなかったからではない。りゅうとしたスーツで都心に出るのは普通に仕事をしなくてはならないからで、サンダルで歩きまわっているのはその一等地に住まいがあるのだ、と教えられれば、スーツとサンダルという “ 見た目 ” に対する判断が逆転するだけだ。
その意味で「見た目で判断するな」という教えは、小学生のような未熟な者にこそふさわしい。見た目の優しそうなオジさんに付いていってしまったりするわけだが、その男の見た目は、大人からすればたいてい極めて怪しい。つまり人はよほど未熟な者に対してしか、見た目をごまかせないのだ。
だからここで言う “ 見た目 ” とは、ヴィジュアルのメッセージ一般ということである。ヴィジュアルのメッセージとはすなわち非言語的なメッセージであり、声音や匂い(この本では割愛したということだが)と同様、言語的に意味内容が翻訳されないままに受け取られるものだ。
人に与える印象の多くが言語以外の要素で決まる、ということは取り立てて新しい議論ではなさそうではある。同じ言葉でも言い方により、またそのときの表情により伝わり方は異なるし、さらには言う人の容姿や外形的な魅力によって与える喜びにも差が生まれる。
人工知能、すなわちコンピューターなどの機械が理解しないと言われていたものに、「皮肉」がある。皮肉が皮肉であると気づくには、言われた状況、相手の声音や表情、さらに過去のやりとりなど総合的な判断力を要する。今のコンピューターなら画像解析も進んで理解可能かもしれないが。ようは人と人のコミュニケーションの本質は、どんな要素にも単独的には集約できない、ということだ。
それは「人」というものそのものが単独的な要素に集約できないことと同値なのだ。ただ、いまやコンピューターですらしないような単純な価値観で押し通そうとする唯一の存在は「子供」である。それが社会に出れば未熟さとして断罪されるわけだが、単純な価値観を子供に押し付けているのは大人たちであり、それはもっぱら子供たちの管理のためだ。それに気づき、抜け出すときが「自然に」訪れることまでも期待しながら。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■