今年の十二月二日に岩田宏氏が八十二歳でお亡くなりになられた。ネットニュースで速報を読んだ時、〝まさか〟と思った。若き日の岩田氏なら平然と「人間いつか死ぬんだ。生きてたって死んでるような物書きばっかりじゃないか」とおっしゃりそうだが、岩田氏の仕事は現在進行形だった。未来に向けた可能性を感じさせた。僕は岩田氏が見せてくれる(かもしれない)未来を見たかった。それがプツリと断たれてしまったことが残念でならない。
今年の春に土曜社から『マヤコフスキー叢書』の刊行が始まった。僕は第一回配本の『ズボンをはいた雲』を、入沢康夫先生から送っていただいて読んだ。岩田宏ではなく翻訳の時の小笠原豊樹名義だが、素晴らしい本だった。マヤコフスキーには詩で表現したい事が山ほどあった。それが計算し尽くされた饒舌体で書かれているのだが、小笠原氏の翻訳は実に良くその特徴を捉えている。そしてこの叢書は欧米のペーパーバックのような簡素な造本である。それは詩と詩集の原点を指し示しているようだった。詩とは貴重な言葉が粗末な身なり(造本)で現れる芸術なのではないかと思わせた。あえていえば、そこに詩人・岩田宏のメッセージが込められているような気がした。
僕は文学金魚に『ズボンをはいた雲』の書評を書いた。しばらくして、思いがけず土曜社社主の豊田剛氏からメールをいただいた。メールには書評のお礼とともに、僕の書評をプリントアウトして岩田氏にお見せしたところ「小笠原さんもほころんでいました」とあった。〝生意気なガキが勝手なこと書きやがって〟とお思いになったかもしれないが、それが僕と岩田氏の唯一の接点になった。僕は素晴らしい芸術家だと思っても、実際に会ってみたいと思うことがほとんどない。しかし岩田氏の姿は遠くからでも一度は見てみたかった。この詩人は謎めいていた。二十代の頃から、喉にひっかかった骨のように気になる存在だった。
僕が大学に入学して本格的に詩を書き始めた頃、岩田氏はすでに詩作をやめていた。僕は古本屋で七百十六ページもある部厚い『岩田宏詩集』を買って読んだ。奇妙な詩集だった。『独裁』、『いやな唄』、『頭脳の戦争』、『グアンタナモ』の既刊四詩集が収録されているのは当然だが、後半は『その他(一九四六-一九六五)』の拾遺詩篇である。巻末「ノート」によると、そこには「わたしが生まれて初めて書いた詩」から、近作の詩集未収録詩篇までが納められている。『岩田宏詩集』は一九六六年、岩田氏三十四歳の時の刊行で、とりあえずの全詩集のはずだった。しかし岩田氏は詩をやめるつもりでこの本を上梓したのではなかろうか。
海難
売り買いの船が
海流のまんなかに
錨を下ろして動かない
理解もし乖離も
するが(ああ)決して
怒りには花を捧げぬ友らよ
諸兄の参集日は私の弔いの日だ
現し世ではもはや二度と逢えまい
麗しの諸兄の言葉は既にして
渦潮に没せんとする船の帆柱の
セントエルモの火だ。
(『最前線』より「海難」全篇)
『最前線』は昭和四十七年(一九七二年)二月十五日に青土社から刊行された。第四詩集『グアンタナモ』(三十九年[六四年])以来の作品集である。『最前線』も実に奇妙な本だった。詩と小説がほとんどランダムに並んでいる。しかし刊行から十年以上経ってこの本を読んだ僕でも、岩田氏の意図はある程度感受できた。
『最前線』巻頭に置かれた詩篇「海難」は、岩田氏のかつての友人たちと、社会へのお別れの挨拶のようなものだったと思う。「現し世ではもはや二度と逢えまい」とあるが、実際『最前線』以降、岩田氏と交流があった詩の関係者はほとんどいないのではあるまいか。対談や座談会も含めて、公の席に姿を現すことも少なかったように思う。岩田氏の訣別の意志は言葉だけのものではなかったのだ。同人詩誌「鰐」で岩田氏といっしょだった吉岡実に、僕は岩田氏のことを根掘り葉掘り聞いてみたことがある。しかしいつも快活な吉岡の口は重かった。
海底の騎士
髪は伸びて
目と頬を覆い
肩から臍に達する
右手には緑青の剣
左手には紋章の楯
巨大な鼻と兜で
水底の騎士は魚を脅す
細長い海溝を跨ぎ
海底山脈を越え
貴殿はどこに行くのか
もはや水圧を感じず
もはや孤独を覚えず
プランクトンをかきわけ
きわめてゆるやかに
貴殿はどこへ?
(『最前線』より「海底の騎士」全篇)
破れかぶれとも違う静かな自問自答が、『最前線』の時代の岩田氏の状況だったと思う。『最前線』以降、岩田氏は詩を書かなくなるが、その白鳥の歌とでもいうべき絶唱を僕は愛した。
惜別の詩で岩田氏は「売り買い」の現世(社会)を嫌悪し、それに反発はするが「怒りには花を捧げぬ友ら」を激しく指弾している。そう、岩田氏は怒りの詩人だった。岩田氏は自ら孤独と孤立を選び、海底深く潜って楯と剣を振り回して戦う。しかし「どこへ?」ゆくのかは自分自身でもはっきりとはわからないのである。
荒れ果てて美しい女の声 ほら
約束は木の葉 足跡は絶望だよ
(『独裁』より「幼い恋」部分)
まっかなコートで
ウインドウの
まっさおな光を
体じゅう浴びている
あのひとがぼくをみつけた
ぼくにわらった 七時 そのとき
ぼくらの間に立ちふさがる風
風のごときものがある
(『独裁』より「土曜の夜のあいびきの唄」部分)
意外に思われるかもしれないが、岩田宏は恋愛抒情詩人として出発した。処女詩集『独裁』には、一人の女性に捧げられた詩篇が数多く収録されている。しかし『独裁』とは何か。表題作で岩田氏は「独裁がくる あれがそれ!//夜よりもしめやかな昼間のなかで/夢よりもおぼろげな現のなかへ/あれがくると 女の歌うたい/きみの声がでなくなる」と書いている。
岩田氏は、一度は一人の女性との愛の中に閉じようとしたように思う。比喩的に言えば、「女の歌うたい/きみの声がでなく」なっても良いと考えたのである。しかしそれはほとんど必然的に見事に砕け散った。岩田氏は愛であれ現世であれ、精神の自由を奪う〝独裁〟を激しく嫌った。岩田氏はなにかに〝馴れる〟ということがない。この作家は本質的には詩人でも小説家でも翻訳家でもなく、前後左右を断ちきった、孤独で限りなく純粋であろうとした一個の魂だ。
あくるあさ
男は目をさます
夢のなかでは
すこしばかりの虚栄と恐怖と狂気が
ゴキブリたちのように走っていた
背骨 棍棒 大豆 胡椒 電車 憲法
すべてが叫び 夢そのものは毳だつ紙のように
障子いちめんざわめき わめきたてて
男は目をさます
ゆうべは革命だった
今朝は
くらしだ
くらしは昔を捨てて行く
くらしはあしたを生みおとす あなたは
ゆうべの雨を沸かして飲むか? 男は飲む
ゆうべの血をあなたはねぶるか? 男はねぶる
キャベツのように汗の肌着をまるめ
皿や茶碗み冷水を浴びせてから
むしろうなだれて 男は出て行く
依然 取引の這う街へ。
(『頭脳の戦争』より「あくるあさ」全篇)
岩田氏の詩篇には、自由であるはずの人間の精神が生活に浸食され、何の変哲もない日常へと変わってゆく戦後が鮮やかに表現されている。吉本隆明の用語を使えば「修辞的な現在」である。岩田氏は終戦直後のほんの短い瞬間に、何かを見た、あるいははっきりと感受した数少ない戦後詩人の一人である。その衝撃は岩田氏の全生涯を支配するほど強いものだった。
戦後思想とは、〝どのような既存思想にも、どんな物質的、現世的誘惑にも左右されない独立不羈の人間精神〟。言葉で表現してしまえばそんな単純な記述になってしまうに違いない。しかし岩田氏は彼の確信を決して手放そうとはしなかった。彼の肉体的実存そのものとして思想を保持し続けた。独立不羈であるはずの精神を蝕む戦後社会への苛立ちは、他者に向けた激しい批判や罵倒となって現れた。だがそれよりも激しく岩田氏の内部に向かった。彼は自問自答を続けたが、遂に精神の「革命」を捨てて生活を選ぶことができなかったのである。
鮎川信夫、田村隆一ら「荒地」以降の戦後詩は、吉本隆明、堀川正美、谷川雁、岩田宏の世代をはさんで、「凶区」、「三田詩人」、「白鯨」世代の詩人たちへと続いてゆく。岩田氏らの世代はいずれも詩を書き続けることができなかった。戦後思想の純粋性に固執したからである。究極であったはずの戦後思想を幻想とみなし、生活に馴れ、思想を適度に薄めて現代詩的な言葉の新たな表現領域を開拓する方向へと舵を切らなければ、詩を書き続けることはできなかったのだと言っても良い。
しかし〝戦後詩〟は本質的には岩田氏の世代で終わっている。水で薄めた思想を拠り所に、今では女子高生でも思いつくような現代詩の実験を続けた詩人たちの〝現在〟は悲惨だ。ただ〝思想〟などと言うと誰もが嗤う。そんなことより自己表現だ、生活の中でのほんのささやかな感情の高まりを利用して、そこに思想らしきものをまぶし、現代詩風の難解な表現を加味すれば詩は書けるじゃないかと言いたげだ。そうやって詩を量産し次々に詩集を出し、詩人と言われ社会から詩人と認められるのが現世だろ、乗り遅れるぜという嘲笑が聞こえて来るようだ。その通り。僕はそれを認める。僕が岩田宏を愛するのは、僕が岩田氏とどこか似ているからだと思う。
「そんなに欲しけりゃ返してやるさ」と、わたしは言い、ポケットから茶色の小壜を取り出して、彼に手渡した。「ありがとう」と早口に呟いて、彼は小壜を上着の内ポケットに入れ、立ちあがった。
「じゃ、そろそろ行くか。これ以上きみを困らせちゃわるいからな」
そして伝票を掴んだ。
わたしたちは外へ出た。駅へ通じる大通りの角まで来て、雑沓のなか、わたしたちは立ちどまった。ここで、変な気を起こすなよと言うべきか否か、わたしは迷い、すぐに心を決めた。言うまい。
「さよなら」と、彼は片手をあげて、たちまち遠ざかった。
「じゃ、また」と、わたしも片手をあげた。
(『最前線』より「触れるべからず」最終部)
「触れるべからず」は『最前線』最後に置かれた小説で、株取引で失敗し多額の借金を負い自殺しようとしている友人を、僕が一晩中なだめすかすというプロットである。引用は最終部で、二日間に渡って街を彷徨した僕と友人が喫茶店でお茶を飲み、駅前で別れるシーンである。
僕は友人が隠し持っていた睡眠薬の小壜を奪ったが、友人にせがまれて渡してしまう。渡せば友人はそれを使って自殺するかもしれない。しかし僕は「変な気を起こすなよと言うべきか否か、わたしは迷い、すぐに心を決めた。言うまい」と決断する。僕と友人は「さよなら」、「じゃ、また」と言って別れる。友人が自殺したかどうかは問題ではない。一個の人間の生と死は「触れるべからず」といった質の問題なのだ。
僕と友人のどちらにも、岩田氏の自我意識が反映されている。比喩的に言えば、「触れるべからず」は岩田氏の詩との訣別宣言である。実際、岩田氏は『最前線』以降、詩を捨てて小説を書き始める。詩で表現できる至高の思想は表現し尽くしたということだ。岩田氏がその実体を明らかにしなければならないのは、思想を浸食し脅かす、得体の知れない現実の生活というやつだ。それを表現するには小説という芸術形態がふさわしい。しかし友人は、詩は死んだわけではない。僕は「じゃ、また」と挨拶しただけである。
岩田氏にとって〝なぜ詩なのか?〟という問いへの答えは簡単だ。それが彼本来の思想表現のためには必須の、なんの制約もない自由な表現だったからである。小説を書き続けたが、岩田氏の中にあったのは本質的には〝詩〟でしか表現しようのない何かだったろう。奇妙な言い方かもしれないが、岩田氏が八十歳を超えて始めた『マヤコフスキー叢書』は、彼自身の創作に限りなく近い詩の表現だったように思う。
もっと疲れてくれないか
もっと働いてくれないか
まもなくすることがなくなるだろう
仕事の終りが現実の始まりなのだ
裏切られて
乳色の靄に溺れて
何もかもすっかり見えなくなるとき
夢の側から見た世界は
いちばん輝いているのだ。
(『最前線』より「九つの唄」最終部)
岩田さんに「ご冥福をお祈りします」という言葉を捧げるのは、なにかそぐわないような気がする。あなたは剣呑で高貴だった。剣呑さと高貴さを維持できる、恐ろしく高い社会的能力を持っていた人だった。その意味では社会的強者だった。しかし岩田さんはその高度な能力を、あくまで自己の矜持を保つためだけに使った。「わかった」でも「やっぱりくだらねぇ」でもいい、ようやく詩に戻ってきた岩田さんの行き着く先を見たかったと思います。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■