児童文学というのは、何のためにあるのか。こういったものを読むたびに思う。つまらないわけではない。それなりに面白い。しかも子供にとっては未知のこと、役に立つだろう経験の先取りといった効用もあるだろう。まさに「面白くて、ためになる」というものだ。
とはいえ、そうであれはあるほど、ある傷ましさを感じるのだ。これから先の人生で、嫌というほど味わうであろう俗世のあれやこれ、人間関係のわずらわしさに早々に晒すことで、子供はあるいは賢くなるかもしれない。成長してからの世渡りの苦労が少し減るかもしれない。しかしそのぶん、確実に貧しくなるだろう。そのぶんかどうか、わからない。引き換えるには合わないほど、何かを見失うかもしれない。
しかしその「何か」を明確に名指しできない以上、親は子供のために、目に見える果実を採ってやることしかできはしない。数多くの果実を採ってやれる親こそが、力のある親だ。もしかすると親の力の限界を晒したとき、子供は一番成長するのかもしれない。そう思って諦めるのも、やっぱり貧乏くさい。言い訳がましいぶん、なお貧乏くさい。
結局のところ、与えるしかないのだ。教育ほど矛盾に満ち、難しいものはない。あらゆる意味でセンスのある親だけが、ぎりぎりまで与えるのを控えるべきものを嗅ぎ分ける。それは子供からポルノを遠ざけようとするのと、何ら変わりはない。『ハッピーノート』は、極めて知的な親ならば、子供に与える理由を見出せないだろう書物だ。
しかしそれは通常の意味で、『ハッピーノート』が悪書だと言っているわけではない。この世の大半の親には究極的なセンスなどありはしないし、そういった大多数の親たちの大多数の子供たちを対象に教育行政もまた機能し、教育レベル一般が保たれていくのだ。
そのような価値観の問題を外して考えれば、公平に言って『ハッピーノート』は完成度の高い小説である。小学六年生の聡子を中心に展開する人間関係のパターン、登場人物のタイプは必要十分なバラエティを示し、起こる出来事にも過不足がない。つまりは小学六年生の女の子の疑似体験として、たいへん有用である、ということだ。
聡子を取り巻く人間関係は、大きく三つに分割される。おせっかいで独善的なのり子と、彼女に支配されるグループの仲間で、帰国子女の世津、障害のあるなおちゃん。そのグループから抜けるため、聡子は私立中学受験を目指すが、塾でのボーイフレンド、いきなり現れてトップクラスに入り、聡子の羨望と嫉妬を一身に集めるお洒落なリサ。そして家族。
結局、聡子の成長を大きく促すのは、母親の態度である。ビルディングス・ロマン(成長物語)として、リアリティがあるような、そんなことでいいのかと思えるような。ただ、本を買うのは母親だし、このような大人向け大衆小説の子供版なら、その母親も読む可能性が高い。そこまで徹底して俗世の人間関係を踏まえた結果だというなら、さらに勉強にはなるだろう。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■