中学入試に、星新一のショートショートが出題されたのは見たことがある。他の作者のものも次から次へと頻出する、という状況ではないようだが、今後はどうだろう。詩が出題されるのだから、ショートショートが出て悪い理由は、とりあえずは見当たらない。3つぐらい並べて、それぞれのオチがわかるかどうか問う、というのはありではないか。都会的で大人びた感じの子に有利かもしれないが。
ただ、作家の個性や独特の感性に基づいて問題を作る、というわけにはいかないだろう。「ショートショートの広場 阿刀田高編」を見るかぎり、ショートショートというのは、どれも似たようなもののように読める。星新一を思わせるもの、という意味で。
しかしもし星新一本人が選んでいたなら、むしろ自身とは、なるべく似ない感じのものを良しとするかもしれない。創作者とはそういうもの、そのスタイルを創り上げた者は細部まですべて飲み込んでいるわけだから、その中に留まっているのは退屈なだけだからだ。
編者の阿刀田高は、ショートショートも文学である、といったことを述べているが、これを読むと、まあ、それは文学の定義によるだろう。阿刀田高が文学者だというなら、その編んだ書物は文学でないと困るだろうし、映画ビジネスに関わる者たちを映画人と呼ぶように、文壇ビジネスで生活する者が文学者だと自称するのも勝手ではあるのだから。
巻末の「選評」を読むとしかし、やはりそれは「文学」よりは NHK の「ケータイ大喜利」に近いように思われる。「ケータイ大喜利」では、必ずしも言語感覚が鋭いとは思えない「審査員長」が、「二本」とか「三本」とか札を挙げて判定するわけだが、本書の阿刀田高による「○○○がもっとあればよかった。××点。」という選評も、それと変わらない。
それと変わらないから「文学」じゃない、と言っているわけでは、もちろんない。NHK の「ケータイ大喜利」をブンガクの一種だと思っている投稿者は全国にたくさんいるだろうし、その人たちの知的水準は小説現代への投稿者と同じはずだ。少なくとも、阿刀田高の「××点。」に諾々と従うか、単なるお遊びと聞き流すか、そのどちらかを選択している、という点において。
投稿欄というのはシステムであって、ジャンルそのものではない。そうわかっていても、人間の思考は目の前にある制度に沿って、伸されたり歪んだりする。そういう投稿者の群れを今度は自身の版図として、制度は自身を疑うことを忘れてゆき、自身を疑う知性も羞恥も持ち合わせない者をトップに掲げる。すべてはその者のせい、と言わんばかりに。
それでも、それがジャンルの名に値するものなら、やがては必ず抜け出る者、システムを揺るがす者、それに沿わない者が現れる。そのとき、それをどう扱うか。自ら「文学」だとする定義が果たして正しいかどうかは、そのときの制度の態度いかんだろう。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■