時代の移り変わりというものは、必ずしも「いまどきの若いもん」によって表象されるわけではないと思う。むしろ「いまどきの年寄り」によって差異がより明確化しやすい、ということはないか。若いもんがいまどきなのは環境要因からくるもので、なぜなら彼らには取捨選択する知性も経験もないからだ。対して年寄りがいまどきなのは、時代の要請によって自ら選びとったものだ。
養老孟司氏は、それこそいまどきの基準では、年寄りというにはまだ若いだろう。しかしその名前や白髪、自らを年寄り呼ばわりする、まあ、ありがちな物言いで「いまどきの年寄り」役を果たしている、といったところだ。それは出版社によって拵えられたものだが。
とは言え、いまどきの出版社にそんな仕掛けが企めるものでもない。出版社が拵えられたのは、あの『バカの壁』というタイトルでしかなく、そのタイトルにインパクト以上の意味内容が特にあったとも思えない。そのような強烈な主義主張はない、というところもいまどきなのである。
養老孟司氏は医師であり、東大の先生であった。一昔前なら単に大勢には縁遠いインテリ層の一人とされていたものが、よく知られた権威の中枢にいる、しかしフレンドリーな知性と位置づけされるのは、ひとえに底辺が底上げされたからだろう。誰も彼もが上昇志向を抱えていた時代は過去のものとなり、しかしちょっとした要領で医学部やエリート大学卒になり得るかも、という情報が蔓延しているがゆえのポピュラーな認知だ。
その通俗な権威のイメージと、インパクトのある本のタイトルに反して、養老孟司の書き物はフレンドリーすなわち普通である。それがいまどき要請されるご意見番なのである、と映りもする。つまるところ誰も人の意見なんぞ、本気で聞いてはいない。いかに自分が語り、それを聞かせるか、そのために持っているものでいかにアピールしているかというロールモデルとしてしか興味はない。
辛口コメンテーターが喜ばれるのはテレビだけで、それは一種の瞬間芸に近い。年輩者ならではのプロフェッショナルな見識などを聞かされるのは、30秒以内にしてほしい、ということだ。素人が気持ちよく見解を呟いたり、垂れ流し続けられたりする “ 楽園 ” こそがいまどきではないか。その意味で、養老孟司氏はあるべき私の、そしてあなたの姿でもある、ということだ。
養老孟司氏はあるべき普通の人であり、その見識は特に常識的である必要すらないのだが、常に “ 中間的 ” ではある。年寄りらしくはないが白髪頭であり、若者に擦り寄ることもないが虫捕りが好きでアニメにも理解を示す、という姿に、あやふやな現代人の輪郭を重ねることができる。
ここで述べられている現代の事情や事件については、だから読む者の記憶に残ることはなく、それゆえに子供にも安心して読ませられる。本質的に興味を持たないこと、それでもその場の空気でコメントできる情報処理能力を持つこと。それが自ら素人と自覚することもない総素人である我々自身の現在である。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■