第47回衆院選 池上彰の総選挙ライブ
テレビ東京
2014年12月14日 19:50~
かつてテレビ東京は、地球最期の日にもゴルフ中継(録画)を流すだろう局と揶揄されたものだ。核の汚染が刻々と拡がる中で、芝の上を球がころころころ「パーです。」(歓声)と、いう感じか。それは確かに、温泉とグルメ(低予算)と株価情報に代表されるテレビ東京の常同性をよく示していた。
見落としてならないことは、地球最期の日にも、ゴルフ中継を観ていたい人はいる、もしかすると結構いる、ということだ。今回の総選挙速報で、フィギュアスケートと速報を同時に流したのはしかしテレビ朝日で、数字的にかなり健闘した。選挙以外のものを観たいという層を取り込んでいるので、視聴率争いも選挙と同じだ。似たような候補では票が割れてしまうのは、いかんともしがたい。
そしてテレビ東京はいまや堂々、プロパーの選挙速報で NHK を脅かす存在になりつつある。いったいなぜ、こんなことになったのか。驚くとともに、どこかで時代の必然をも感じる。本当に興味深い現象とは、必然的なものでなくてはならないのだから、それは示唆に富むものだと言えよう。
つまりそれは、ただ単に NHK の OB である池上彰を起用し、それがたまたま当たった、ということではないと考えられる。彼にはやりたかったことがあり、それは NHK では絶対にできないことであったろう。オフィシャルな巨大組織である民放各社の多くであっても難しいだろう。自らの立ち位置を意識的に戦略化し、それをテコとして逆転を狙うというやり方が顕在化しつつあったテレビ東京と、そんな池上彰とのマッチングはスリリングな必然と呼ぶべきものであった。
テレビ東京の特徴であった常同性が、選挙速報に見られるスリリングな状況を生み出したことは、大変面白い。結局のところ、メジャーな民放が作り出した型通りのドラマとしてのテレビ的文脈こそ、見飽きた退屈な光景になりつつあるのだ。ごく平板で素朴な問いかけ、たとえば政党と宗教団体との関係を問うことがスリリングかつドラマチックなものとして視聴されること自体が奇妙ではないか。
公明党の山口代表が、歴史的経緯で創価学会との関係を認めたことは、今までになかったという意味では驚くべきことで、しかし誰もが承知していたという意味では驚くべきことではない。驚くべきは、今まで正面から問われたことがなかった、ということだ。そのタブー化が型通りの見飽きたドラマを作ってきただけだ。認めてしまえば、むしろ何ということもない、と山口代表だって察した結果だろう。ただ、ジャーナリズムの原点に立ち返ることは、既成ジャーナリズムの固定化された文脈とは縁が薄いところでしか不可能だったということだ。
当選者の顔写真に付加されるテロップも話題になっている。これにも池上彰が関わっていると言明したことには意味がある。どれほど面白おかしく書かれていても、それは選挙速報のバラエティ化なのではなく、ジャーナリズムの一環なのだと宣言したのである。小さなものから大きなものまで、過去のトラブルには必ず触れている、というのがその証しだ。ではなぜ、これほど面白い必要があるのか。
「どんなに強風が吹いても髪型が崩れない」、「猪を解体できる」という事実は事実で、面白がっているのは我々だ。それは彼らが生身の人間であるということを伝えているに過ぎない。インタビューの最後の数秒、イエス・ノーでしか答えられない状況で際どい質問をぶつける池上彰流もまた、単なる事実をあぶり出す手法の一つのように思える。用意された型通りの返答こそがジャーナリズムを退屈なドラマにしてきた、それがいかに骨身に沁みているかが伝わってくるのだ。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■