すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙
於・神奈川県立近代美術館葉山
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=h
会期=2011/02/11~03/25
入館料=1000円(一般) カタログ=2400円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
神奈川県立近代美術館葉山館は2003年竣工の低層の建物だが、鎌倉館のように往年のモダニズム建築を感じさせることはなく、美術館としての機能性を重視して設計されたようだ。とにかく相模湾を一望できるロケーションが素晴らしい。海の見えるレストランも併設されているので、デートスポットとしても活用できると思う。僕もレストランでお茶を飲みながら、小一時間ほどぼんやりと海を眺めて帰ってきた。快晴の日だったので、傾いた太陽の光と海の青さがとても美しかった。凪いでいる時の海はほんとうに素晴らしい。
今回は『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』展である。先に評価を言ってしまうと総評、展示方法、カタログ全て平均点の80点です。ただ今回はあまり自信も根拠もない採点です。採点を投げてしまったので平均点になっているとお考えいただきたい。美術展時評を引き受けておいていまさらと言われてしまうでしょうが、やはり得意不得意、好き嫌いというものは抜きがたくあるものだなぁと実感しました。
実は近代美術館鎌倉館で『生誕100年 藤牧義夫』を見た後に、どうせならと足を伸ばして葉山まで行ったのです。葉山というロケーションのせいか、観覧者は少なくゆっくり見ることができました。でも大規模な回顧展という割には今ひとつピンとこなかった。カタログを読んだ印象も同様です。村山知義さんは、はっきり言えば僕のタイプじゃない。だから今回の時評は短いものになると思います。
村山知義(ともよし)は明治34年(1901年)、昭和52年(1977年)没(享年76歳)のマルチタレントの芸術家である。前衛画家としてデビューしたが、童話などの挿絵も描き、自由詩、小説作品も数多く書いた。建築にも手を染めている。吉行あぐり(吉行淳之介、和子、理恵の母)経営の吉行美容室を設計したのは村山である。映画も監督したが、村山が一番力を注いだのは舞台演出と舞台装置作りだった。昭和34年(1959年)から劇団東京芸術座の主催者となり、死去の際は劇団葬が営まれた。
戦前の前衛芸術を調べていれば、誰もが一度は『MAVO(マヴォ)』グループの名前を目にするはずだ。『マヴォ』は村山が中心になって結成されたダダ系の前衛芸術グループで、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎、柳瀬正夢が参加した。後に漫画家の田河水泡(高見沢路直)も参加している。村山は大正11年(1922年)1月にドイツに向かい、翌12年(23年)1月に帰国すると、ドイツで見聞し、また当地で購入した書籍を元に前衛的絵画や彫刻を矢継ぎ早に制作して発表した。それは同時代に一瞬の驚きを与えたが、『マヴォ』グループから美術史に残るような作品は生まれなかった。村山も画家・彫刻家として立つことはなかった。
僕が『マヴォ』グループで記憶している芸術家は詩人の尾形亀之助だけだ。尾形は戦前に最も不可解で不気味な詩を書き残した詩人である。
ある眠つた若い女のよこ顔は
白い色の花の一つが丁度咲き初めた頃
私が その垣のそばを通りかかつて見上げた空が
夕方家へ帰つて見たときに黄ばんでゐたことです
(『無題詩』全編 詩集『色ガラスの街』大正14年[1926年]より)
僕は尾形がなぜ『マヴォ』のような前衛グループに参加することになり、そこからどんな影響を受けたのかに興味がある。
村山はその後、左翼思想に興味を抱き、戦前の左系芸術運動ではおなじみの『日本プロレタリア文藝連盟(プロ連)』、『日本プロレタリア藝術連盟(プロ藝)』、『全日本無産者藝術連盟(ナップ)』、『日本プロレタリア演劇同盟(プロット)』、『日本プロレタリア文化連盟(コップ)』などに参加した。小熊秀雄や中野重治らも参加したプロレタリア芸術グループである。戦前に村山は治安維持法違反で2回逮捕されている。しかし村山が左翼思想の持ち主であったのかどうかは判然としない。彼の『演劇的自叙伝』を読んでも左翼思想は一種のファッションであったように感じられる。
村山は大正12年(1923年)にドイツから帰国して前衛芸術家として活動し始めてから、常に日の当たる場所でその時々の流行に便乗した人のように思われる。前述のように戦後は劇団東京芸術座の主催者として君臨し、司馬遼太郎らによる時代小説ブームが来ると、その傍ら『忍びの者』などの通俗時代小説を書いた。発表誌は共産党機関誌『赤旗』で、このあたりに村山が村山であるゆえんが表れているように思われる。村山の舞台美術を賞賛する人もいるが、僕にはヨーロッパ表現主義・未来派の焼き直しにしか見えない。非常に乱暴な言い方をすれば、すべてのジャンルにおいて二流であり、だが存命中は、戦前も戦後も、いつも社会的名士として生きた幸せな芸術家もどきであった。
展覧会のタイトル「すべての僕が沸騰する」は、「すべての僕の情熱と思索と小唄と哲学と絶望と病気とは表現を求めようとして具象されようとして沸騰する」という村山自身の言葉からとられている。この言葉に村山の全てがこめられている。要するに『すべて僕』だ。村山の作品を通覧しても迫ってくる作品はない。その代わり常に常に『村山という僕』が自己主張している。演劇という崇高であり、恐ろしく愚劣で通俗的でもあるジャンルには、村山のような芸術家が生まれる土壌があるのかもしれない。寺山修司は「あなたの本業はなんですか?」と聞かれると、いつも「僕の職業は寺山修司です」と答えていた。村山も同じだろう。ただ寺山の中にはトラウマのような激しい孤独と人恋しさが同居していた。それが時に鮮烈な抒情となってほとばしった。しかし村山にはそんな特質もない。ジャーナリスティックなセンスに関しては、寺山以上の能力を持っていた人だとは思うが。
解説を読むと、若い人たちの間で村山再評価熱が高まっているのだという。ネコも杓子もジャーナリズム小僧、小娘と化した今の状況では当然のことかもしれない。しかし僕は村山のような人を評価するのに適任ではない。村山評価は、現世を歌って踊って楽しく暮らしたい芸術家の卵さんたちにお任せする。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■