絵本と言えばこれ、というぐらい有名なものだ。日本語へは谷川俊太郎が翻訳している。少ない言葉だからこそ、過剰なものや足りないものがあってはならない。そして言葉は絵と響き合わなくてはならない。補完し合うのではなく、響き合う。言葉に過不足があってはならないのは、この響きを鈍いものにしてはならないからだ。
「スイミー」のストーリーは、「みにくいあひるの子」などによく見られるものだ。赤い小さな魚たちの中で、スイミーだけが黒い。他の魚たちとは違うためにいじめられ、爪弾きされるが、それゆえに思慮深く鍛えられる。大きな魚に襲われ、散り散りに逃げまどう小さな魚たちを集め、大きな赤い魚に見せかける。その中心として、スイミーが黒い目玉になるのだ。
世の大方と異種であることで差別され、排除される。異種であることが劣位であることとされる。それを逆転させて、実は優位であった。とすることは最大のカタルシスである。しかし通常は、優位であることを示して、それで終わりである。みにくいあひるの子は、あひるの子ではなく白鳥でありました、シンデレラは王子とともに暮らしました、ということそのものが復讐であり、それは復讐劇である。
しかしスイミーは仲間を束ねて戦う。これは復讐劇ではなく、一種の貴種流譚譚である。流離しない流離譚。苦難にあって鍛えられる、ということが示唆されれば、それが苦難の旅となる。白鳥もシンデレラも、生まれながらの貴種であればそれでよいが、リーダーは苦難を経なくてはならない。
レオ・レオニは、多くの手法で描く絵本作家である。「スイミー」はその物語のオリジナリティよりは、その絵の美しさで知られていると考えてよいと思うが、そこには言葉との響き合いによって、いっそう美しさを増した透明感がある。
実際、最も美しく印象に残るのは、黒くくっきりと描かれたスイミーその他の生き物ではなく、半透明にぺたぺたと版で押された赤い魚たち、どれも同じ形の彼らと、これも透明な濃淡が美しい水紋など、スイミーをときに苦しめた「環境」の図柄の方である。物語の中心、「人格」を与えられた存在は、そこに存在している、という印でしかない。美しさを纏っているのは物語の周縁である、というのは示唆に富む。
この美しい絵本は、かわいらしく賢いスイミーの見ている世界でなくてはなるまい。かわいらしく賢いのは、この絵本を読み聞かせられ、この絵を眺める子供でなくてはならないからだ。スイミーの目に、自身を取り巻く環境、自身を無視し、やがては自分が導くことになる仲間たちは存在感の薄いものだろうし、そうでなくてはならない。スイミーはそれに押しつぶされることなく、それらをコントロールする立場になるのだから。
ものは見え方、である。美しいと見えるような立場に立ち、その視点で視る。賢い、と言われるのはそれであり、美しさを作り出すのは白鳥やシンデレラのとは違う物語である。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■