アラビアンナイトという言葉に、私たちは憧れとともに、なぜか郷愁を覚える。それで思わず手に取ってしまう図録である。もちろんそれによって、その文化が理解できたとは思わない。しかしこれは、アラビアンナイトの文化であって、現在の中東地域一般への理解ではないのだから、その地域の人々にとっても図録などで示してもらうべきものかもしれない。
たとえばそれは、私たちにとっての源氏物語や江戸文化など、日本が纏い得るイメージと同様のものであって、今現在、中東地域に住む人々にとってはかつての牧歌的な、あるいは批判に値する文化の一端に過ぎず、日常的には無縁であるが、それを説明するのも面倒だろうと考えられる。
そんな過去の遺物に憧れ、今の中東情勢には背を向けないまでも、ややこしいものとして関心を示さない外国人とは、まったく度し難い、と思われることは想像に難くない。遊びに来るのはいいけど、うかうかして流れ弾に当たらないでね、というところだろうか。
しかしながら、私たちがそれへ感じる郷愁は、なかなかそれで切って捨てられない。源であるところのオリエント、そこへ至るシルクロードという概念は、いつかは行かねば、という気にさせるのだ。そしてその場所は、飛行機による空間移動ばかりでなく、タイムマシンも併用しなくてはならないアラビアンナイトの世界なのだから、どこか諦めを抱えた上で行くなら行かねばならない、と理解もする。
アラビアンナイトの魅力とは、一口に言えば野蛮なまでの豪奢ということになるだろうか。その豊かさが伝播し、西と東でそれぞれに洗練を果たした。日本文化は洗練の極みで(洗練されすぎて理解されないぐらい)、それに気がついた世代にとっては、西側の文化は必ずしも憧れるに足りない。
宗教と石油利権によって複雑化し、簡単には理解できなくなる前の中東世界に、豊かさそのものという文化の資源を感じ、郷愁すら覚えるというのは、それが中国の版図に触れ、変容しながら極東の島国に伝わるまでの長い時間に思いを馳せるからだと考えられもする。根源とはすなわち、それからここに至る時間そのものと同義なのかもしれない。
野蛮なまでの豪奢と言えば、もう一つの端にアメリカがある。アメリカの野蛮さはしかし、文字通りの野蛮さ、そもそも何もなかったところから生まれてきたものだ。それは人の心を不安定にもするし、その結果の繊細さもあり得る。その繊細さはあくまで内向きであり、外から見れば単なる神経質にしか映らないとしても、空虚を埋め尽くすための際限のない豊かさは子供っぽい、ある種の透明な抒情をもたらす。
アラビアンナイトの豊かさは、そもそもの初源からの、問答無用の豪奢である。女も子供も、王も貧乏人も、存在そのものがみっしりと密であり、豊かに描かれる。その豊かな記号の無限の繁殖は、遍在する神そのもののようで、私たちにもやはり懐かしいのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■