前野健太 『興味があるの』
それは切なさの極まりだ。
「君のお父さんか、君の子供にでもなったみたい」
その感情は髪を撫でていているときに、ほっぺにチューをしているときに沸き起こる。君に最接近し、君に直接に触れたときに。君のお父さんとも、君の子供とも違う自分が君に触れている。血のつながらない、他人の手が。最接近し、それでも残る距離を見つめる、これは異邦人の歌だ。
前野健太というミュージシャンにとって、歌は住所を持っている。たとえばあるインタビュー記事、
――住む街が変われば歌は変わりますか?
前野 : 変わるでしょうね。「歌イコール夢」みたいなのがあって、それを捨てられたらもっと自由になれるんですけどね。まだガキなんだよなあ。福岡にふらっと住みついてそこで子供作って、歌って、「じゃあ」っつって大阪に行って、子供作って… 。
子供というジョークにも真実味がある。土地に触れ、性交して歌をつくる。土地と女が比喩で結びつく。生まれた歌の手を引いて連れて行ったりしない。歌はそれぞれの女親の元で育ち、うたうことで再会する。また別のインタビューでの発言、
――誰かの感情であると同時に自分の言葉という「これだ」という詩ができる時って具体的にどういうことですか?
ちょっとよそ者っぽく見えた時かもしれないですね。僕の感情そのものではなくて、僕の感情で見た景色を描けているかどうかが重要。そこで僕の感情で見ている景色を、ちゃんと言葉を配置して丁寧に描けば、苦しいとか言わなくてもその感情が伝わるし、それは誰かの感情っぽくなる。
<よそ者>と歌の関係は、前野の歌を聴けばだれもが理解するだろう。彼が歌を歌うとき、彼ではない誰かの声を聴いたような気がする。彼は誰かの声を歌詞に書き留め、歌声に響かせている。具体的なところでは、曲を作るときの順番は作詞が先だという。まず言葉がある。その前に声がある。そして声を聴いた土地があるのだ。鴨川でも、タクシーでもいい。
本作「興味があるの」にはそのような歌作りをうたっているメタ的側面がある。
君のふるさとの春を教えて
君のふるさとの冬を歌って
僕は君に興味があるの
君の生きていることに興味があるの
<君>と<ふるさと>は、ほとんど同じものだ。異邦人である歌い手の欲望の対象として。前野は、興味があるから教えて、歌って、とせがむ。つまり、君の声を聴かせて、と。本作は<君>の声を聴く直前の、<君>との触れ合いをうたう。その切なさは、君に触れたときに自分自身の異邦性を感じるところにある。その切なさが極まるのは、この歌の言葉となった声が、あまりに孤独な歌い手の声だから。前野自身の言葉を借りれば「僕の感情そのもの」。誰かの感情を歌うために捨象され続けてきた感情は、再び「君のお父さんか、君の子供にでもなったみたい」という言葉のうちに捨象される。そこに美徳がある。誇らしく、寂しい美徳が。
歌詞の最後は、照れ隠しのような駄洒落なのだが、ここにも真実味が漂っている。
興味があるの
きょう海が見たいの
もうひとつ、浜辺に佇む将来の異邦人の歌を我々はみな知っている。
海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国
異邦人の手が<君>の輪郭に触れたとき、そこに<よその国>を隠した水平線が連想される。それは<君の国>である。異邦人は、たとえ海を渡り国土を踏んでも、つま先に自国の浜辺を引きずっている。指先に水平線を感じている。寂しさに涙ぐむ。声だけなのだ、彼を水先案内できるのは。彼の国土にも届きうるのは。
驚くべきは本作が、もう片方の側面では、まったく素朴な男女の歌であるということだ。この事実だけで、どうして飽きる事なく男女の欲望が歌われ続けてきたのかがわかる。それがただ一曲を歌い継ぐのでは到底済まなかった理由も。その大半は欲望の満たし方に目を向けている。しかし、まさに浜辺の砂粒ほどある愛の歌の中で、本作は異彩を放つ。決して愛を叫ぶ事なく、波音に耳を澄ましている。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■