金井純さんのBOOKレビュー『絵のある本のはなし』『No.024 ファージョン自伝-わたしの子ども時代- エリナー・ファージョン著』をアップしましたぁ。金井さんは、『『自伝』を読んだ人は、「わたしはどのような読者がおもしろがってくれるだろうかなどと考えることもなく、ひたすら自分を含めた四人の仲間のために書」いたという(ファージョンの)言葉に、まったくその通りだと頷くだろう。相当なファージョン好きでも『自伝』を読み通すのには苦労するはずである』と書いておられますが、そのとおりですねぇ。実は不肖・石川は、半分ほど読んで挫折したのであります。読破した金井さんは偉いっ(爆)。
もちろん金井さんは、『自伝』からちゃんとファージョン文学の本質を掴んでおられます。『ファージョンは新たにお話を作る作家ではない。お話を生き、それを今ここで起こっているかのように語る作家である。・・・ただ彼女はプロの作家になってからも、それを一切方法化しなかった。・・・作家になってからも、ファージョンの心は「一八九〇年代の子供部屋」に留まったままである。あるお話(物語)が突然彼女を捉え、それを生き始めることが彼女の執筆活動になる。・・・お話は次から次にやってきて彼女の心を捉える。ファージョンのアメーバーのような文体はそのようにして生まれている』と書いておられます。ファージョン文学の不思議な魅力は、彼女の子供部屋から生まれてきたのですねぇ。
金井さんはまた、『児童文学は二つのタイプに分類できると思う。一つ目は・・・唯一無二のヒーロー・ヒロインが活躍する物語である。もう一つは世界観が主人公の物語である。・・・主人公の言動や内面を描くのではなく、世界観をこそ表現するのが作家の目的なのだ。・・・世界観文学は、世界を創り出すという意味で神話世界に繋がっている。人間意識がなぜ物語を生み出すのか、なぜ人間は物語を必要とするのかという原初にまで作家意識が遡行するからである。・・・わたしたちは今日、そのような文学をポスト・モダン文学と呼ぶ。児童文学にポスト・モダン文学の傑作が多いのは、作家たちが子供の意識をもって物語の生成原理に肉薄するからである』と批評されています。これもそのとおりだと思います。
昨日詩壇の問題点を書いたので、今日は文壇の問題点にちょっと触れておくと、文芸誌に掲載される小説批評の大半は意味論批評です。作家がなにを言いたいのかをひたすら探究する評論ですね。もちろん構造主義やポストモダン的方法で小説を読解する批評家も現れるのですが、そういう方は目先が利くのか、早い段階で小説批評に見切りをつけて、他ジャンルの批評活動に移ってしまう。そのため小説批評は、気がつくと日本の伝統的な国語教育的意味論批評に舞い戻ってしまふのであります。
作家がなにを考えている、私はこう思うといった意味論批評が小説ジャンルで盛んなのは、半ば当然です。小説は基本的に俗なものであり、不特定多数の読者に読まれることで初めてその価値を発揮する。そのため批評を書く場合でも、詩壇のように特殊なジャーゴンを使うのは御法度です。原則として誰でも理解できるような平明な評論に仕上げなければならない。意味論は多かれ少なかれ人間の実感をベースにしていますから、多くの読者の共感を得られる可能性があります。また小説の大部分が意味から読み解けるのも事実です。
ただ意味を追うだけで小説作品を読み解けるわけではありません。金井さんは構造主義やポストモダ二ズムといった〝イズム〟を重視しているわけではないですが、小説を明確に構造から読み取る批評家だと思います。〝世界観文学〟などは、意味論批評では導き出せない小説文学の特徴でしょうね。また作家がなにを表現したいのかという意味論よりも、作品の構造に注目した方が、少なくとも作家(とその卵さんたち)にとっては、益するものが多いのではなひかと思います。
文芸誌では、しばらく前から新人賞下読み選考委員による匿名座談会などの内幕暴露的コンテンツが掲載されています。もそっと情報を付け加えておくと、その文芸誌で新人賞を受賞したけど、イマイチ伸び悩んでいる作家が下読み仕事を引き受けることが多い。そうやって作家はある文芸誌のカルチュア-にどっぷりつかってゆくのですなぁ。ですからいろんな意味でそれは文壇の内情を知るための貴重な情報でありまふ(爆)。ただそれだけで良い作品が生まれて来る可能性は低そうです。意味・構造の両面からアプローチした小説の書き方についてのコンテンツを増やした方が、読者は喜ぶでせうね。
■ 金井純 BOOKレビュー『絵のある本のはなし』『No.024 ファージョン自伝-わたしの子ども時代- エリナー・ファージョン著』 ■