分類としては、これは詩集なのだということで、詩画集の一種かと思ったのだが、それとも少し違うらしい。詩画集とはどういうものか、ということを考えるきっかけになった。それと絵本との違いも。
詩画集というのは、テキストと絵のコラボだけれど、それらは互いに対峙していると思う。対決しながらのコラボだ。絵本は互いに説明、説明という言葉がよくなければ補い合っている。友好的な協力関係だ。絵本の絵がぐっと縮退して、挿絵となると、絵がテキストに尽くすかたちだ。
それでこの『MIXED MEDIA』という本は確かに、そのいずれでもない。1991年の刊行で、個人が自由にできる「MEDIA」環境は今とは状況が違うが、それでもここでのイラストやタイポグラフィなどは「MEDIA」というよりテキストの一部という感じである。絵を描いているのは著者とは別人だが、テキストと対峙してもいないし、補おうとするような独立した意図も感じられない。テキストの著者の自我が全部を支配しており、その目的は文字が表現できる外枠を拡げようとしている、ということらしい。他人の描いた絵も含めて文字にしようとしている点で、これはすべてテキスト、著者の名による詩集なのだろう、と推察される。
詩集にかぎらず文学というのはしかし、表現の可能性を拡げようとするものだろう。普通は内容、つまりテキストの「意味」でそれを試みようとすると思うので、「MIXED MEDIA」というタイトルからしてメディア = ここでは文字の可能性に偏ってそれをしようとするのは、文学の中でもやはり現代詩という特殊なものに属するのかもしれない。
その判断をつけられたことの種明かしをしてしまうと、この本には著者が当時書いたエッセイとか評論? も詰め込まれている。それでこれが現代詩と呼ばれるカルチャーに属していると見当がついた、というわけである。ところで、そういう手がかりを与える、と言うよりその特殊なカルチャーにわざわざラベリングされることを、著者は望んでいるようにみえるのはしかし、どういうことだろうか。
エッセイなどの散文で展開されている主張とか、そのニュアンスから察するに、今でこそ特殊なカルチャーと認識されている現代詩というジャンルに、著者は当時、誇りというか、ある「権威」めいたものを感じているのではなかったろうか。それはたぶん、その頃としては根拠のあることだったかもしれない。しかしそうならばなおのこと、そういった世俗への慮りが「詩集」に組み込まれている、というのはどういうことだろうか。そんなことまで「詩」にしてしまえるほど、現代詩というジャンルは消化力の強いものだったのか。それがなぜ、今のように特殊な領域へと縮退してしまったのか。
さらに種明かしすると、それらエッセイの中には、金魚屋の詩のアドバイザーである方々の名前も散見される。で、これについてちょっと問い合わせてみようかと思ったのだが、それを躊躇させるものもあった。そんな世間的な思惑を読者にもまた、強いる「詩集」とは、撞着的ではないか。
躊躇したのは、なんかドヤされそう、というのではなくて(それもあるが)、ここに出てくる他者の固有名詞は、著者のエゴに取り込まれるべく変形されたものであって、現実の存在とは無関係な気がしたからだ。ここでの絵やイラストが、著者の存在を拡大するための MEDIA = 文字に過ぎないものとされているように。他者を取り込む素振りで、一人きりしかいない、というのは、やはり相当に奇っ怪で特殊なものであるようだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■