孤独のグルメSeason4
テレビ東京
水曜 23:58~
Season4 である。たいへんな人気番組ではないか。人気の秘密は、人気番組の気配を微塵も感じさせないところにある。勢いも気負いもない。グルメっても、大衆食堂でのフツーの昼飯、晩飯だ。それも一人で。主人公、井之頭五郎(松重豊)の心の声がぶつぶつ言う、それだけのドラマである。深夜の鄙びた時間帯、鄙びた局でのこの寂しい雰囲気の番組が、DVDまで出る長寿シリーズだとは、たまたま目にした人は誰も思うまい。
しかし同時に、これほど多くの人に既視感と共感を与える映像もまた、ないのではないか。仕事の合間に、労働する者が一人で摂る食事。寂しいようでいて、心底癒される瞬間でもある。つまらなそうに、ただ食べているように見えて、本当は、今日はここでこれを食おうと数日前からスケジュールに入れていることもある。仕事のでの立ち寄り、気楽な散歩に変わるのだ。
その贅沢は、まさにグルメと呼ぶにふさわしい。カツ丼であってもポテトサラダであっても、それを美食に押し上げているのは、もちろん「孤独」である。「一人で食べるものはエサであり、家族で食べなければ食事とは言えない」と発言した芸能人がいたが、そうだろうか。それへ寄せられた抗議は、単に独居者への思いやりに欠ける、といった理由からだけだったろうか。
孤独の味わいを知らない人間は、気の毒である。芸能人といった人種は、常に人に囲まれてなんぼなのかもしれないが、だとすれば一生孤独を怖れて暮らすのか。人に話しかけられながら、また人の反応を見ながら、ものの味がわかるのだろうか。
テレビというのは、芸者を呼ぶ座敷のようなところがあって、とにかく景気よく盛り上げさえすれば何とかなるという。しんみりすれば客が我に返って、おひらきに繋がる。腹がへったから食う、それがうまかった、というのはごく基本的な生活の一部であり、それだからこそ多くの注意を惹くことができるが、そこでの食い物が大騒ぎの対象にならなくてはならないとなると、食っているものはそれにぶら下がったタグだということになる。
とはいえ能書きをたれながら物食う人種は、昔からいた。それはそれで本気でありさえすれば、能書きのプロとして、見ていて面白いというぐらいのものではあった。昨今のように、単なる一消費者に過ぎないレベルの者たちが、自身の贅沢に言い訳するためか、あるいは平凡なお遊びを生産的なものに転化しようというケチくさい計算をはたらかせているのかという、片腹痛いような光景はなかったと思う。
「孤独のグルメ」は確かに、それら自称グルメたちへの痛烈な批判ともとれる。食い道楽を自慢するなら、身上つぶすぐらいまでやらねばならない。誰もがその気になりさえすればできる程度の贅沢は、この大衆食堂の定食の、孤独による極上の味わいに劣る。
美味しいものを親しい人たちと分け合うのは、喜びである。だが、いつの間にかその「かたち」を食べ、薄っぺらい時間を過ごしているだけ、ということもままある。主人公、井之頭五郎は日常生活においても孤独者という筋金入りだが、我々もまた、家族に後ろめたくない程度の贅沢が格別の味わいを持つことを、こっそり知っている。そこへの共感が、このひそやかな番組の人気を支えている。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■