児童書は、やはり普通の小説本とは違う、と思わせるものだ。こういう真っ直ぐな成長物語は、大人の読む本ではあり得ない。もちろん大人とて変化も成長もするのだが、横にぶれたり、後戻りしたりしながら、なんとなく人生の全貌がわかってくる、という成熟の仕方だ。大人になりかけの若者らも同様だろう。
弓道部のメンバー三人を描いた物語で、それが高校でなく中学、というところがミソかもしれない。高校生というのなら、もう少し歪みや屈折が出てくる。成長や希望は、最後に覗くわずかな光として示唆されるに過ぎないことが多い。言葉を変えれば、高校生は現実のもっと多くのことを抱えることができる。できる以上、それをしてしまう。そういうことでパンパンに膨らんでしまうのだ。
臆病な主人公の少女、天才肌の女友達、黒人の少年の三人が弓を引き、その集中と克己がそのまま成長に繋がる。この清々しさは、確かに中学生のものかもしれない。中学生は基本的に自分のことでいっぱいいっぱいだ。他人への想像力が働かない代わりに、その眼差しは真っ直ぐである。
小説とはどういうものかを知的に理解させるには、この本は不向きかもしれない。もちろん、登場人物のバラエティ、才能ある友人の悩みに気づかなかったという発見を通した成長と、小説作法は踏まえられているし、典型的な成長物語ではある。しかしその爽やかさは、いわゆる小説のものではない。むしろ青春の文学としての詩に近いものかもしれない。
成長とは一つの結果、それも成果である。ぶっちゃけた話、偏差値が 45 から 52 になるようなものだ。しかし小説の力学とは本来、偏差値表そのものを破き、制度を壊してしまうエネルギーにある。もちろん大人は、そういうエネルギーを子供に期待してもいるのだ。一方で、偏差値表を破るのは、一度は上の方に行ってからにしてくれ、とも思っている。制度の破壊が、制度からの逃げになってはならない、と思っているのだ。
だから児童文学にも二通りある、ということだろうか。大人が自らの子供時代、あるいは子供性への憧れをそのまま作品化したものと、もう一つは子供に課せられた成長という義務に寄り添い、応援するものと。前者に少しでも後者の要素が混ざると、説教臭くなって失敗する。しかし後者の作者は、前者の要素を完全にあきらめることはできない。それをなくしてしまうと、「小説」ですらなくなってしまうからだ。
典型的な後者であるこの作品では、主人公はたまごを握っている。うずら卵が孵ってしまうのではないか、と言われながら、またときどきは割ってしまいながら。それは、そのような心持ちで弓を扱うためのトレーニングだ。実際、そのようにしていた子がいたのかもしれないが、少し現実感がない。しかし逆説的に、その点で初めて「小説」に接近したように見える。
弓道は禅に通じると言う。そこには単なる成長では済まされない思想の可能性が、ほんの少し覗く。それもまた「立派な達成」に回収されてしまっているきらいはあるものの、それが便宜上の物語に過ぎないことは、少なくとも「成長」した読者なら察するだろう。
金井純
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