とにかく子供が笑う。特に男の子がゲラゲラ笑い転げるのである。70年代の八王子、男の子たちがバカなことをして遊びまわる姿が描かれている。ゲームや塾に追われる今の子供たちにとっては、見知らぬ世界では、と思われるのだが、そんはことは全然ないらしい。
著者は秘境探検家、ノンフィクションライターであるという。自らの少年時代を書いたものと思われ、たいへんリアリティに満ちている。子供が笑うのは、ただ、このリアリティに共感するからに相違ない。
今の子供にとって、読書は「勉強」である。読んだ端からテストに出題され、その「意味」について考えさせられ、答えさせられるのだ。つまり、本に書かれたすべてのことには「意味がある」ことが前提となっている。その意味がわからない、ということは、すなわち成績が悪い、勉強ができないということに直結する。
しかしながら、この世の中というものは、そう意味のあることばかりではない。というより、九割方、意味のないことに満ち満ちている。意味がないことを発見するたびに糾弾したり、意気消沈したりしていたら、とうてい生きてはいけない。元気がある、ということは、この無意味さに耐える力がある、ということだ。人間、元気がなくなってくると、意味のある部分だけをちょちょっとかい摘み、省エネで要領よく得たものでやっていこうとする。もちろん、それが世に言う「知性」なのだが。
本というものは、わざわざ書かれ、コストをかけて出版されるのだから、意味がないものはない、というのが常識的な解釈だ。だから本の一部を抜粋し、その意味を問いただすのは、まことに理にかなっている。理にかなってはいるが、理にかなったことばかり続くと、理にかなわないことがしたくなる。そこに意味はないが、快楽はある。
ここに一つの秘密があって、快楽があるところ、意味は必ず後からくっついてくる。くっつけることが可能なのだ、くっつけたければ。しかし心底から快楽を愉しんでしまった者は、それへの意味付けに、それこそ意味を見い出さなくなる。あらゆる意味が相対化して捉えられるあたり、最高の快楽は人を賢人のようにしてしまう。
しかし快楽は永くは続かない。少年たちの楽園も、やがては失われる。人はそのとき初めて頭を使い、知性を振り絞って快楽のときを延命させようと試みる。大人が探検できるところへと移動し、ノンフィクションライターになる、というのも一つの手段かもしれない。どんな秘境も、70年代の八王子の原っぱにはおよぶべくもないだろうが、そのときの感覚の片鱗ぐらいは味わえるだろう。
もう一つの秘密は、快楽は永く続かないので、少年時代にすでに拡散しつつ延命を試みている、ということだ。彼らの無意味そのものの遊びにも、すでにちらほらと社会の似姿、統率者、結婚への夢想といったものが影を落とし始めている。生産性を重んじるなら、無意味な遊びとはそれらへの準備期間にほかならない、という解釈になる。しかし実際には、快楽は延命を試みるうちに、保証がある(かのような)方向へと追い詰められているのだ。そして気がつくと、すっかり社会の、「意味ある暮らし」という罠にはまり込んでいる、というわけである。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■