「詩からアートへ/アートから詩へ」という特集。りょんさんとしては、興味深い。わりと。ほんで(元?)学芸員だったり、大学の先生だったりする人たちが「新しい関係性のはじまりへ――イメージ・言葉・資本」というお題で対談していた。
思ったんだけど、最近、文芸誌で書いている人たちの年齢や略歴を巻末に載せていることが多くて、あんましカッコよくないなーと感じるのは間違いかも。やっぱそれって必要で、その人が何者かわかんないと、読みようがないってことがある。こういう記事は特にそうで、どっから出た発言なのかってのが不明だと、「(笑)」ってあっても笑うとこなのかどうかも不明。昔の感じでは対談なんかするのは誰もが知ってる有名人なわけだが。こういう現代詩以外のジャンルの人を呼んできて調だと、この雑誌のカルチャーにどっぷりなインサイダーにはわかります、とも言い切れないかと。
そんで、ない推理力をはたらかせて(元?)学芸員らしいとか大学の先生らしいとか、見当をつけた。そうすると学芸員の実態とか話してて、ヨタ話としては面白かった。学芸員って親方日の丸で、思いつきの企画展(「恐竜とネコ 展」とかか?)やってりゃいい呑気な人たちかと思ってたけど。呑気には呑気の苦労があるみたい。いかに呑気でなく見せるか、とかさ。
ただ、こういう特集は、芸術新潮とかヴィジュアルのある雑誌でないと、ツラいかな、ってのが正直な感じ。言葉と絵の関係について、言葉でだけびっしり語られちゃってるってのは、ワンサイドストーリーじゃね、と思うわけさ。
書くってのもそうだけど、しゃべるってのは、その場の雰囲気でヒヨるってことがフツーにあるんでないか。「言葉とアート」について、一般的ってか透明性のある話になりかけると、なんかいちいち現代詩手帖カルチャーに引き戻すってか、翻訳されるみたいな手続きが踏まれるみたいな。
それはそこのメディアの都合なわけで、それに理解のある人たちを対象にしてるってか、そうでもしないと何でこんな関係ない特集組むのかって、突き上げ食らうってのもあるかもね。りょんさんの住む地域の区民センターとか、よその優秀な画家の作品を展示したりしたら、タイヘンだょ。地元の日曜画家が文句言ってくる。町内会費も払ってないやつの絵なんか飾るなって。
足枷があるってわかってるなら、言葉とアートとか、あんまし一般的なテーマにしないで、そういう人たちにも興味が持てる話だけに最初から限定した方がいいかも。学芸員は政治力があるとか、なのに被害者意識があるとか、詩人と学芸員がそれぞれ大学のセンセになるとかならないとか、そういうチョーくだらないヨタ話も結局、そのメディアなり、聞き手の興味ありそうなことをついサービスするってかたちでヒヨってるだけだと思う。もともと、そこまで下世話なこと言うつもりなくても。なかったんだ、って信じたいね。美術の目利きでプロなんでしょ。カラー写真一枚、載せられないってわかってるところじゃ、しゃべる気にならなかっただけだって。
こういう雑誌がまず、やるべきことはさ、「言葉とアート」みたいな特集をほかのフツーのメディアが組んで、自社で自費出版した詩人たちを大勢、取り上げてくれるぐらい、詩の世界を盛り上げることだよね。町内会から感謝状が来るし。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■