徹子の部屋
テレビ朝日
月~金 12:00~
「徹子の部屋」が正午の開始となった。フジテレビ「笑っていいとも」の放送終了などに伴う移動だそうで、他局の動向に併せて流れを作る、というのはやはりあるのだなあ、と思った。とはいえ、この「徹子の部屋」の正午スタートというのは、ちょっと落ち着かない気がする。
慣れればそうでもないのかもしれないが、「徹子の部屋」を観る層というのは、お昼にはまず NHK にチャンネルを合わせないと、という動きをするのではなかろうか。それで天下泰平、たいしたこともなしとわかれば、芸能などヒマネタや反芻ネタを求めて「ワイドスクランブル」へ、さらに世の中を見尽くしてしまった頃、料理番組で今夜のおかずを決めるなどするが、そんな時分におもむろに始まるのが「徹子の部屋」だった。
つまり「徹子の部屋」には時事性はまるでないので、それこそが長寿番組である理由ではないか。それは十年一日のごとくでなくてはならない。ゲストは様々に異なるわけだから、あのオープニングの常同性こそが大事なのだ。そのいつものオープニングが、NHK のお昼のトップニュースを観ていると欠けてしまう。これは問題である。大問題である。
そして徹子さんはいつも変わらない。これこそ非常に大事なことである。昔のビデオと見比べると、きっと歳とっているのだろうけれど、あれだけ特徴的な頭だと多少の差異は紛れてしまう。テレビ用の衣装、ヘアメイクというものは、日常で美しく見せるのとは本質的に違う、ということがよくわかる。テレビで映え、あの人だとすぐわかる、というのは、場の雰囲気に馴染むこととは正反対だ。
一方で、フラワーアレンジメントは毎回、ゲストの雰囲気やそれぞれの衣装にあわせているという。「部屋」として最大限の演出を施されているのだ。「部屋」の絵は女主人と客人、その衣装、花、飲み物で構成され、そこにトークという音楽が流れる。
「徹子の部屋」に呼ばれることが、芸能人(文化人)の一つの達成であり、目標のように言われはじめて久しい。が、最初はもちろん、そうではなかっただろう。ちょっと素っ頓狂な小母さんに、自身のことを説明するトーク番組で、話が伝わっているのかいないのか、よくわからない瞬間がある、というのが持ち味として認知されたのは、番組と視聴者、そして出演したゲストたちそれぞれの “ 成熟 ” があったように思われる。
よく言われることだが、「徹子の部屋」は意外と地味なゲストのときの方が面白い。聞いたこともない脇役さんとか、プロの裏方さん、この道一筋の職人さんとかの回をたまたま観ることになると、聞いたこともないのは自分の物知らずだったとわかる。そして彼らの話が面白いのは、視点の問題なのだ。よく知られた有名人は、その人の言いそうなこともまた、ある程度は知られている。たとえば同じ出来事を別の視点から見たとき、なるほどと思われる言説が吐かれることがあるわけだ。
「徹子の部屋」を鬼門とするという、若い芸人たちの内輪ジョークがよく聞かれるようになった。何も知らない、何もわからない視聴者を代表するというスタンスの徹子さんは、芸人の芸に打てば響くような反応はせず、どこを面白がるべきか確認し、説明してしまう。とりあえず持ちネタでウケを狙うこと以外、引き出しを持たない若手芸人はそれで撃沈するという。「徹子の部屋」限定の新しいタイプの漫才が誕生した、と見るべきかもしれない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■