水野翼さんの文芸誌時評『No.013 小説 野性時代 第125号 (2014年04月号)』をアップしましたぁ。特集は『運命の恋愛小説』で、小池真理子さんが特集に寄せたエセーで『最近は、無難な恋愛の小説が売れている』と書いておられます。水野さんは『せいぜい互いの駆け引きですれ違いが起きる、ぐらいのことだとすると、クライマックスはセックスシーンにしかならない。それはジャンル分けとしては、手の込んだポルノであり、恋愛小説ではない』と書いておられます。
今に始まったことではありませんが、大衆小説誌ではあまり良質とは言えないポルノ的作品がけっこう掲載されます。ぶっちゃけた話し、どーしてもマンガやゲームを娯楽にできない世代や読者がけっこういらっしゃるんですね。そういう方たちは、小説によっていろんな楽しみを得ようとなさいます。いまさら文字でポルノねぇ、と思う方は多いでしょうが、ニーズは確実にあるのです。しかしそういった文字(小説)好き読者層の高年齢化は確実に進んでおります。将来、今のような数の大衆小説誌を維持できるかどうかは保証の限りではなひでしょうね。
でもま、小説文学にとってセックスシーンはけっこうな大問題です。セックスは異性(同性でもいいですが)の深い結び付きを表現するものだからです。現代小説であえてセックスシーンを省くのは、ちょっとどーかなーと思ってしまふところがあります。しかしセックスシーンが読者の記憶に残りやすいのも確かなのであります。たいていは小道具的扱いのはずなのに、妙にそればかり注目されてしまふことがある。映画なんかで女優さんが脱いだことが話題になる仕組みと基本的には同じです(笑)。
で、セックスは基本、人間社会では隠されるべきものであるから注目される。隠されるものといえば、ほれ、文学金魚が誇る特殊作家、三浦俊彦センセが飽くことのない情熱を傾けておられる排泄があります。こりを暴露しやうとする作家が少ないのは、セックスと違って一人だけの行為だからであります。三浦センセはそれを覗きなどの他者の介在によって社会的テーマになさるわけですが、フツーの作家さんは、人間の孤独を表現する素材としては使えるかもしれません。殺人の後、トイレで長々とおしっこする男や女とかね(爆)。要は全ての人間の行為は小説の小道具なのでありますぅ。
■ 水野翼 文芸誌時評『No.012 小説 野性時代 第122号 (2013年12月号)』 ■