「人文書入門」という特集だ。軽い内容の本も売れなくなっている今日、哲学書や思想書を誰が読むのか、とまずは考える。しかし興味・関心が細分化している以上、まったく出ないということもまた、考えにくい。人がやらないことを探し出し、それに凝ってみせるという時代ではある。そのようなスキ者だけを相手にビジネスが成り立つようにしなくてはならない。
一方で、哲学や思想というのは、普遍的な原理を追究するものだ。普遍的なものであるからには、スキ者を相手にするというのでは歪んだものになるだろう。最初に多くは出ないのは論文と同じで、難解さゆえということ。普遍的な原理であるなら、それは世界中に浸透するはずだ、というつもりでいなくてはなるまい。
で、その「普遍的な原理」を信じるという輩がどこにいるのか、という問題ではある。この散漫な状況の中では、そういうのは新興宗教とか、占いとかスピリチュアルに興味がある、というのと変わらないように捉えかねられない。いや、だがしかし、宗教やスピリチュアルが悪いわけではなくて、そういうものへの関心を胡散臭がったり、警戒したりする「一般認識」というのも薄れつつあるようだ。「一般認識」を振りかざすことの方が、「常識」オバサンのように相手にするに足りない、と思われるほど、今の状況は超リベラルではある。侵してはならない原理は、人に迷惑をかけること、そのぐらいだろう。
しかしながら最近、ニーチェやマルクスといった思想家の名前を耳にする機会が増えたように思うのは、気のせいだろうか。ポストモダンの果ての姿とも思われるネット社会で、もちろんネットにはあらゆるものが転がっていて、ニーチェまがいの御託もあろうし、マルクスの言説を調べればすぐヒットして便利この上ない。が、この超リベラルなエネルギーのスープ状態は、ビックバンさながらに、何かの方向性を求め始めている気がしないでもない。
仮にそうだとして、するとそれは危険な面はないのか。いや、これほどのリベラル状態で、一気に一方向へ突き進むことはあるまい、と思いたい。が、誰もが自由に発信できるようであって、オールorナッシングに勢力が固められるのもまた、ネット時代の特徴ではある。
それでもこの「人文書入門」特集は、なかなかよいと感じる。不思議と古めかしくは映らなかったのだ。レヴィ・ストロースとかニーチェが、「ポストモダンの前」とか「その下地にはなった」という捉え方はせず、なおかつ無味乾燥な思想史の一部というのでもない。
新しさは、これらを初めて目にするだろう、若い人たちの関心のあり様を想定するところから生まれる可能性があるのかもしれない。ポストモダンを起点にすべてを遡るやり方は、我々には飽き飽きするものだが、若い人たちにとってはそれもまた「へぇー」と言うべき、初めてのめずらしい考えに相違あるまい。その視線の前にそれらを紹介しながら、もしこちらがリフレッシュするならば、これほどよいことはあるまい。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■