テラスハウス
フジテレビ
月曜 23:00~
これと、かつて放送されていた「あいのり」とどう違うのか、もしくはどっちがマシ(失礼)か、というギロン?がよく聞かれる。
「あいのり」は単純に言えばゲームであり、「恋人を探すための集団見合い」。ゲーム盤は世界。一つのワゴン車に乗って、たとえばユーラシア大陸を横断する。そのスケールだけはテレビならではであった。が、その間中、誰の隣りに誰が座ったとか、誰と誰が長いことお喋りしていたとか、大自然や異郷を尻目に、くっだらないことに拘る男女の姿を映し出す。それを、くっだらない、と感じてはいけない、というのが第一のルールということなのだろう。達観主義者はゲーマーには向かない。当然だが。勝者は「上がり」として恋人同士で日本に帰国する。つまり勝者は常に複数形だ。敗者は告白して振られた者で、一人で帰国する。いずれにしてもゲーム盤からは去り、新メンバーが投入される。
この「あいのり」は、若者を中心に人気が高かったが、批判も多く寄せられた。一番多かった反感はやはり、人の気持ちをオモチャにしている、というものだったと思う。ルールがあり、ならばゲームとわかっているはずなのに、若いがゆえに本気で悲しんだり嫉妬したりする。その様子を番組にして外から眺めるのが、いかにも悪趣味というわけだろうか。いや、若いがゆえに本気になってみてくれ、というのがそもそものテレビの要請なのだ。それに乗っかってきた者たちばかりなのだから、本気になろうとしてなっている本気だ。それを嘘とは言わないが、いわばそれが日本古来からの「見合い」というものだ。「見合い恋愛」などという、情けなくも未練がましい言葉もあったっけ。
「テラスハウス」の方は、番組のために感情を盛り上げさせるルールがない、という意味では、だいぶソフィスティケートされている。男女がグループで住み、つまりシェアハウスしているだけの状態が続いている。おおよそ三ヶ月ぐらいで、それぞれの事情で出てゆく、という決まりはあるようだが、まあ、家賃がタダなんだろうから、いつまでも居座るというのも非常識である、ということで。
ただ、画面の第一印象が奇妙で、見ていて違和感を覚える、という映像的な特徴が面白いと言えば面白い。ドラマなのかドキュメンタリーなのか、リアリティバラエティという区分があるとすると、普通のバラエティはやっぱりホンがあるぶん、リアリティはないのだということなのだろうか。
で、「あいのり」同様にヤラセだとか何だとか言われるわけだが、それはもしかすると、テレビなるものへの幻想が生む噂かもしれない。ヤラセなんて面倒臭くて、労力やコストのかかることは、できるだけしたくないのが現場というものだ。だいたい、考えてシナリオ書いて渡したって、それで面白くなるとはかぎらない。「リアルだよね」、「はい、リアルです」と誰にも責任のかからない形で、だが、あ・うんの呼吸でドラマチックなことを起こしてくれるのがカンのいい出演者というものだ。では、その出演者が役者なのか。そうでもあり、そうでもない。フツーに暮らしてくれと言われても、外からの視線があるとき、私たちは誰も多かれ少なかれ役者だ。感じの良すぎる人たちが、こぎれいに暮らしている時点で、それはドラマなのである。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■