ちびまる子ちゃん
フジテレビ
日曜日 18:00~
「サザエさん」や「ドラえもん」に並ぶ国民的アニメ番組である。最初の頃、「エッセイ漫画」と称していたと記憶しているが、まさしくそのような新ジャンルであると言える。
「ドラえもん」は、のび太くんの日々の中で、夢をかなえてくれる SF 的な要素が大きくある。「サザエさん」は「ちびまる子ちゃん」同様に日本の一般的な家庭を描いているが、視線が第三者、すなわち外からのもので、サザエさん一家の人々を公平に眺めている。「ちびまる子ちゃん」は、ちびまる子ちゃんを中心に描くとともに、ちびまる子ちゃんの視点から世界を眺めている。
ちびまる子ちゃんは、優等生の姉を持つ次女特有のお調子者で、愛嬌のある面白い子供ではあるが、その可笑しさは必ずしも彼女が他人の視線を引きつけようとするところからは発生していない。まる子に視線が向けられるのは、まる子が失敗するなどした結果であって、最初の視線はまる子が世界に向かって放つものだ。子供ならではの唐突さ、脈絡の希薄さで、まる子はベッドに憧れてみる。それも天蓋つきの。畳敷きで寝ている子なら、無理もないのだが。
以前、知り合いの(非常に裕福な家庭の)小学生のお嬢さんが、ちゃぶ台に憧れているのだと聞いたが、それと大差はない。何かの些細な物から世界を覗き込もうとする。そこから世界の全体像を把握し直そうとする。一種の思考実験で、子供ならではの「エッセイズム」というものだろうか。
「ちびまる子ちゃん」の画法として注目されたのが、遠近法の無視であった。家族が炬燵に入っている図が、まるで立体図形の展開図のようにべちゃっと潰れ、広げられて描かれる。日々の近代的視線に慣れた私たちには、それは初めて浮世絵を見た外国人さながらの軽いショックを与える。ちびまる子ちゃんは日本的ノスタルジーの平面に閉ざされた昭和の少女である。畳に伸されたように寝て、ベッドに憧れている。
ちびまる子ちゃんが散発的で脈絡のない関心で、思い出したように世界を把握するというスタイルをとるのは、優秀で勤勉、すなわち近代的な意味で進んでいる姉から受けているプレッシャーのせいでもあるだろう。そこにごく普通の母親がいて、構築的で生産的な姉娘を頼りにし、まる子に「おバカ!」と叫ぶ。父親は戦後的シニカルを漂わせ、平成のくだらぬ育児パパどもと違って子供らにたいして興味はない。つまり両親は、まる子が自身なりの散発的な世界把握をするのを邪魔したり、一定の方向性を与えようとしたりはしない。
方向性は与えないが、まる子の散発的「エッセイズム」に呼応するのは、祖父の友蔵である。「心の俳句」と称して、何でも五・七・五にする。そうなのだ。日本にはこういう老人はたくさんいて、ちびまる子並の脈絡のなさで俳句や短歌を次々に詠む。しかしその集積、無名のアーカイブこそが日本的なる文学の像だとも言える。このあたりは、祖父と孫娘とで日本文学のある本質というか、機微を押さえているという感がある。という気もする。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■