桜花文漆椀残闕 鎌倉時代(十三世紀から十四世紀頃) (著者蔵)
今回は漆椀の残闕である。十数年前に入手したが、買ったときから十二個の残闕になっていた。骨董屋の話では最初の所有者は発掘したての物を買ったそうだ。その時は器の形をしていたが、時間が経つにつれて水分が抜け、バリバリに割れて現在の形になったらしい。たたし残闕を組み合わせてみても、元々半分くらいの形で出土した椀である。発掘場所や制作時代はわからないという話だった。しかしこのくらい残っていれば推測しやすい。
結論を先に言えば鎌倉時代の漆椀残闕である。制作時期は十三世紀中頃から十四世紀初頭で、発掘場所も恐らく鎌倉だろう。残闕は一つ一つが紙に包まれていただけだったので、箱は自分であつらえた。大切にしているからだが、一つの箱に収めて箱書きしておかなければ、なにがなんだかわからなくなってしまう物だからでもある。
源頼朝によって開かれた武家政権初の都である鎌倉では、過去何度も文化財調査が行われている。大規模なものに昭和四十六年(一九七一年)から五十六年(八一年)にかけて行われた鎌倉市文化財総合調査がある。陶磁学者の三上次男氏を団長に、地元の考古学者・赤星直忠氏など各学問ジャンルを代表する学者らによって行われた。その結果は『古文書・典籍・民俗篇』、『書籍・絵画・彫刻・工芸篇』、『地質・動物・植物篇』、『建造物篇』四冊の総合目録にまとめられた。簡便なものでは平成八年(九六年)に根津美術館で開催された、『甦る鎌倉-遺跡発掘の成果と伝世の名品』展カタログがある。
鎌倉では昔から、由比ヶ浜や材木座海岸などで中国・朝鮮陶器の残闕を拾うことができた。戦後の骨董ブームで良質の物はあらかた拾われてしまったが、今でも稀に見つけることができる。貿易船によって中国・朝鮮陶器が鎌倉にもたらされたが、荷揚げ前に破損した物を海に投棄した名残だと考えられている。その量から言って大量の陶器が輸入されていたことがわかる。ただ鎌倉の寺社仏閣の所蔵品で、当時から確実に伝世していたと断定できる陶器は意外と少ない。長い年月の間に流出したり、あるいはいつの時代にか流入したと思われる物が多いのだ。
発掘品は当時の物だが、中国製品では南宋時代の白磁や青磁、元時代の青磁、朝鮮製では高麗青磁などが数多く見つかっている。いずれも鎌倉と同時代の海外製品である。日本製では古瀬戸や常滑の壺や瓶子などが発掘された。日本人は縄文時代から焼物を好み作ってきたが、その制作技術は江戸中期に至るまで中国や朝鮮から大きく遅れていた。新たな製陶技術は常に中国・朝鮮からもたらされていたのである。
たとえば古瀬戸や常滑は、縄文土器などと同様に粘土を紐状に積み上げ、それを薄く伸ばして作られている。轆轤で挽かれた中国・朝鮮製品に比べると無骨で重い。そのため輸入陶器は美術品や嗜好品で、古瀬戸や常滑などの和物は実用品が多かったのではないかと考えられている。種壺や水瓶、骨蔵器などとして使われたのである。この唐物――中国陶磁を指すが朝鮮陶磁も含む――偏重主義は、茶の湯が成立した室町時代はもちろん、江戸時代にまで続いていくことになる。日本人は昔から海外ブランド品に弱いということでもある。
三上先生らの文化財調査で、初めて土の中から見つかった遺物もある。漆器である。漆器の歴史も古く、縄文時代の遺跡から漆を塗った櫛などが発掘されている。奈良・平安時代に作られた経机や経箱、硯箱、手箱、瓶子やお盆などもそれなりの数が伝世している。焼物では中国・朝鮮に遅れを取っていたが、漆器製作技術は日本で高度な発展をとげていたのである。
名古屋の徳川美術館に、徳川三代将軍・家光の長女・千代姫が、数え年三歳で尾張徳川家に嫁いだ際の調度品、通称『初音の調度』が残っている。調度の多くが漆器である。それを見ると、江戸初期に漆器製作技術は驚くべき洗練の極みに達していたことがわかる。明治維新による開国で、それら優美な漆器製品が大量に欧米に流出し、日本製漆器が『ジャパン』と呼ばれるようになったのは衆知の通りである。
ただ鎌倉で発掘された漆器には伝世品が存在しない。実用品で古くなれば捨てられてしまう物だったからと考えるのが普通だろうが、どうもそうは言えないらしい。使用されたあとがほとんど見られないのである。椀や小皿が多いので実用品には違いないだろうが、用途はよくわからないのである。
出土品全体を概観すると、鎌倉時代に使用されていた日用品はかなり質素なものだったことがわかる。普段使いの焼き物は釉薬を掛けずに焼き固めただけの土師器が多い。木器は漆を掛けない製品がほとんどだった。漆器は当時、それなりに高価で貴重な物だったはずなのである。『甦る鎌倉』展カタログで根津美術館学芸員の西田宏子氏が鎌倉出土漆器の特徴をまとめておられるので、それを手がかりに今回図版掲載した漆器を読み解いてみたい。
出土した鎌倉漆器は伝世の漆器と比べれば粗悪である。木地の上から厚く黒漆を塗ってある。時代は下るが江戸期に岩手県で作られた浄法寺漆器は、根来などに比べると質が劣るので『ざっぱもの』と呼ばれた。大雑把な技法で作られた漆器という意味である。鎌倉漆器も浄法寺と似た作りである。ただ漆が厚いので、結果として八百年近く経った今でも黒々とした色を保つことになった。
また数は少ないがベンガラを混ぜた朱漆で内側を塗った物がある。黒漆の上から朱漆を塗ってあるので、塗りが薄い場合は僕が持っている椀残闕のように、鮮やかだったはずの赤が黒ずんで見える。他の遺跡発掘品では例のない鎌倉独自の技法である。これは器を飾るための装飾技法の一つだったと考えられている。
漆椀内側
* 朱漆が塗ってある。
器の内外に、朱漆で草花文などが描いてある物が多いのも鎌倉漆器の大きな特徴である。たとえば現在の市役所近くの佐助ヶ谷遺跡からは、椀四八三個、皿八七七枚もの漆器が出土している。三十パーセントが黒漆のみで、後の七十パーセントには朱漆で模様が描いてある。そのいずれにも使用痕がないようだ。西田氏はカタログで、『おそらく非日常的な道具で、使われた後で洗ったり拭いたりすることなくそのまま破棄されたものであったことを意味すると考えられ、そのために特別な意味を込めて内面にも繊細な文様が描かれることになったと考えられている』と書いておられる。
また文様の描き方にも鎌倉独自の特徴がある。朱漆で草花文などを描く方法には、筆による施文、筆で描いた後に先を細く尖らせた道具で漆を掻き落とす方法、それに数は少ないが、同じ模様を型で捺していく印判の三種類が確認されている。印判による施文は焼物でよく使われる。製品を大量生産するための技法である。しかし今のところ、同じ印判を使って作られた鎌倉漆器は一つも発見されていないそうである。大量生産用の技法で作られたとはいえ、鎌倉漆器は個々に独立したオーダーメイド作品だったわけである。
漆椀桜花文
* 印判で文様が捺してある。
僕が入手した漆器も印判で文様が捺してある。技法は断定できないが、花弁の外側部分にわずかなかすれや滲みが見られることから、型紙を当ててその上から筆で施文したのではなかろうか。ただ花弁外側部分に比べ、内側のヒトデ型の黒部分のエッジは極めてシャープである。これを見ても粗製濫造ではなく、慎重に一つ一つの模様が捺されていたことがわかる。
類品が、現在の雪の下一丁目と小町二丁目の間にあった北条時房(ときふさ)・顕時(あきとき)邸跡から出土している。時房は北条政子・義時の異母弟で鎌倉幕府初代連署である。顕時は鎌倉中期から後期の人で、これも評定衆などの重職を歴任した。
【参考図版】漆椀 菊花文 北条時房・顕時邸跡出土 鎌倉市教育委員会蔵
* 内側に朱漆が塗ってあるが、外側の文様は筆で描かれている。
日本には古神宝と呼ばれる神社奉納品が伝来している。神々がお使いになる道具類を特別に制作して納めたものである。奈良の春日大社や広島の厳島神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、熊野速玉神社の古神宝などが有名である。時代は奈良から室町初期に及ぶ。その種類は着物や鏡など実に多様である。
厳島神社は武家の平氏、鶴岡八幡宮は源氏によって創建されたため、太刀や弓などの武具神宝も多い。漆器も数多く含まれている。化粧道具を収めた手箱や硯箱、鏡掛けなど、当時の貴族社会で使われていた品物だが、神様のために作られた一級品のお道具類である。起源は特定できないが、日本では古来から神社に宝物を納める習慣があったのである。
古神宝の奉納習慣を考えれば、当時は定期的に神への祭祀儀式が行われていたはずである。その中には祭祀で一度使用すれば廃棄してしまう道具類もあっただろう。鎌倉の佐助ヶ谷遺跡から、実に一三六〇点もの椀や皿が出土していることは、そこでなんらかの宗教儀式が行われていたことをうかがわせる。佐助ヶ谷には鎌倉時代には北条時房以来の佐介北条氏の屋敷や、国清寺、悟真寺、蓮華寺、松谷寺などがあった。また佐助ヶ谷は鎌倉七通しの一つ、化粧坂に続く湿潤の地でもある。そのため漆器類が腐らずに出土したのである。
裏付けはないが、椀や皿が多いことから、鎌倉漆器は祭祀の際に食べ物などを盛るための器だったと考えるのが自然だろう。また佐助ヶ谷以外にも鎌倉各地で漆器が発掘されているので、多くの寺社、あるいは武家の屋敷で祭祀が行われていたのではないかと想像される。しかし鎌倉独自の習慣であったのかどうかを含めて詳細はわからない。文書記録にもそれらしい記述は残っていないようだ。鎌倉時代はわからないことが多いのである。
歴史区分で言えば鎌倉時代は中世ということになる。しかし民俗学的に見ると鎌倉はほとんど古代である。柳田国男は庶民の生活をうかがい知ることができる下限は室町時代までだと言ったが、その通りだと思う。骨董などを見ていても、鎌倉になると残っている物がグンと少なくなる。民間の伝世品はほぼ皆無で、寺社仏閣に伝わった物がほとんどである。発掘品の陶器はかなりの数があるが、その種類も限られている。人々の生活を知る資料は絵巻などが中心になるが、庶民の生活が描かれた場面は少ない。
鎌倉時代は歴史の厚い闇の中に埋もれがちなのだが、この時代が日本の歴史の大きな転換点だったのは確かである。歴史学者の網野善彦氏は、『日本社会の歴史』などの著書で、平氏滅亡時に京都の後白河院が元暦の年号を使い、鎌倉の源頼朝がその前の治承を使い続けたことから、東西二つの政権が存在したと考えるべきだと述べた。異論はあるだろうが卓見だと思う。衰退したとはいえ京都朝廷の力はまだまだ強かった。朝廷の力が完全に無力化されるのは、徳川幕府が慶長二十年(一六一五年)に禁中並公家諸法度を公布してからである。また武力ではなく文化面に注目すると、鎌倉期の京都の優位は歴然としている。
鎌倉初期の元久二年(一二〇五年)に、後鳥羽上皇の勅命によって『新古今和歌集』が編まれた。源頼朝など板東武者の歌も採られているが、ほとんどが京都の公家の歌である。網野氏はそこに、京都の力を示そうとする後鳥羽上皇のプロバガンダが込められていると書いた。ありうることである。後鳥羽上皇は言うまでもなく、承久三年(一二二一年)に執権・北条義時追討の院宣を出し、戦いに敗れて隠岐の島に配流になった帝王である。また鎌倉初期の和歌は、平安時代のそれから大きく変貌しようとしていた。
『新古今和歌集』の撰者の一人、藤原定家の代表歌は『見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ』である。この和歌が定家の代表作と認知されているのには理由がある。実在物としても観念としても、それまで平安和歌の中心だった花(桜)と紅葉が〝ない〟空間が詠まれているからである。様々な解釈が可能だが、定家が実景描写的なこの歌で、ある〝空虚〟を表現しようとしたのは確かである。この詠みぶりは、定家の愛弟子である源実朝作品でさらに顕著なものになっていく。
武士の矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも
正岡子規が指摘したように、実朝和歌はほぼ純粋な客観短歌である。これらの歌に平安短歌を覆っていた濃厚な観念性はない。芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』や蕪村の『ほととぎす平安城を筋違(すぢかひ)に』と紙一重の俳句的表現である。子規はそれを〝万葉ぶり〟と表現した。しかし子規以降の歌人たちが解釈したような単純な『万葉集』回帰の歌ではない。実朝和歌に『万葉集』から感受できるような向日性はない。暗いと言えるような諦念で現実を見つめている。
この暗さ、あるいは現実世界を裸眼で見つめるような客観性は、鎌倉初期の精神風土から生まれたものだと思う。よく知られているように、実朝は北条氏との政争で二十八歳の若さで暗殺された。子供の頃から明日命を落とすかもしれない戦乱の世を生きていて、彼もまたその災禍に巻き込まれたのである。この時代の精神は、濃密な想像空間の中で仏の来迎を夢想するような密教的心性から、仏も神もいない無として世界を捉える心性への変化だと言ってよい。『万葉集』と『新古今和歌集』成立の間には五百以上の時間が流れている。作品の言語表現は似ていても、それを生み出した精神風土は大きく異なるのである。
またそれは日本全体の精神風土の変化だった。鎌倉時代以降、日本人の精神は密教的な精神風土から禅的な精神風土に変わる。この変化を前提とすれば、なぜ室町時代に客観描写を中心とする俳句が成立したのか理解しやすくなるだろう。実際、和歌の黄金時代は鎌倉初期で終わる。子規が『近来和歌はいっこうに振るい申さずそうろう。正直に申しそうらえば、万葉集以来実朝以来いっこうに振るい申さずそうろう』と書いた通りである。
ただこれらの考察は、その多くが直観に基づいたものである。鎌倉時代の人々の生活実態はよくわからないと書いたが、それは文化面でも同じである。平安末から鎌倉時代初期の古典籍の多くは、定家を始祖とする冷泉家の文書が中心になっている。しかし定家が筆写しなかった歌人の家集や歌論書などが、当時は膨大にあったはずなのである。砂浜が波で洗われて綺麗な石が露出するように、残るべくして残ったテキストだとは言える。しかしそれらは氷山の一角である。
現在私たちが読むことができるテキストは、優れてはいるが平安・鎌倉文化の残闕だとも言える。その全体像には空白の部分が多い。どの時代でも、時代の細かな襞まで知ろうとすれば空白部分が大きくなるのは当然である。圧倒的に資料が少ない鎌倉時代まではなおさらのことである。しかし物として残っている骨董を〝読む〟ことは、文書情報の欠落をかなりの程度補ってくれると思う。
鎌倉は手近な観光地なので、年に数回は遊びに行く。昼間はうんざりするほど観光客でごった返しているが、夜遅くまで知り合いの家にいると、日本全国どこにでもある田舎の静けさだ。また歩き回ると鎌倉の地形の峻厳さがよくわかる。広々とした海に面しているが、由比ヶ浜から陸地の方を振り返ると繭に包まれているような感じがする。浜からは陸地を歩いて来る人も、入港する船も一望の下に見渡せただろう。江戸はもちろん、京都・奈良とも比較にならない狭さである。鎌倉は自然の地形を利用した要塞都市だ。この海に面して開かれ、陸からの脅威に対して固く身を守るかのような小さな都市で、かつて板東武者独自の習俗が存在していたとしても不思議ではないと思うのである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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