2009年5月9日、六本木ヒルズで打ち合わせを終えタクシーで外苑東通りから青山通りに抜けようとしていた時、青山葬儀場の前に大勢の人が集まっているのが見えた。なんだろうと思って車外に視線をやると、『忌野清志郎告別式』という大きな看板が目に飛び込んできた。
『清志郎の告別式、今日だったんだ』と隣の同僚が言った。助手席に座っていたもう一人が、『忌野なんて名前のロッカーが若死にするなんて、シャレにならないよな』と振り向きながら言った。『そうだね』と答えたが、誰も笑わなかった。みんなで黙って告別式会場を見つめた。スピーカーから誰かの声が流れていたが、タクシーの中からは聞き取れなかった。翌日になってスポーツ新聞で、甲本ヒロトが弔辞を読んでいたことを知った。
「清志郎どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」っていうもんだから、「そうか、じゃあおれも革ジャン着ていくか」って来たら、なんか、浮いてるし。…清志郎のまねをすれば、浮くのは当然。でもあなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな。(中略)数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。はは…。今日もそうだよ、ひどいよ、この冗談は。
(甲本ヒロト 弔辞)
ほんとうにその人のことをよく知り、愛していた人の弔辞は時に痛切に胸を打つことがある。タモリさんの赤塚不二夫の弔辞がそうだった。赤塚さんはお人好しで、しばしば莫大な金をだまし取られた。しかし赤塚さんは決して人を憎む人ではなかった。タモリさんは弔辞で、『天才バカボン』の『これでいいのだ』という言葉が、赤塚さんの人生観そのものなのだと述べていた。愚かさや崇高さを含む力強い生の肯定が、赤塚さんの表現の中心にあったのだと。
ヒロトの弔辞も清志郎という表現者の本質を的確に衝いていたと思う。確かに清志郎の真似は誰にもできない。彼には生の愉楽としか言いようのない快楽があった。だから死は悲しむべきことだが、清志郎の場合、それはなにかの冗談としか思えないところがある。
内ポケットにいつも
Oh トランジスタ・ラジオ
彼女教科書ひろげてるとき
ホットなナンバー空に溶けてった
Ah こんな気持ち
Ah うまく言えたことがない
Nai Ai Ai
(中略)
授業中あくびしてたら
口がでっかくなっちまった
居眠りばかりしてたらもう
目が小さくなっちまった
(中略)
Ah 君の知らないメロディー
聞いたことのないヒット曲
Ah 君の知らないメロディー
聞いたことのないヒット曲
(RCサクセション 『トランジスタラジオ』 作詞・忌野清志郎)
『トランジスタラジオ』は音楽にうつつを抜かしたいわゆる不良高校生が、学校の屋上でタバコを吸いながらラジオを聞いている光景とその内面を詞にしたものである。RCと清志郎のファンの方は反感を覚えられるかもしれないが、なんということのない歌詞である。吉本隆明や高橋源一郎は中島みゆきの歌詞を高く評価しているが、彼女のような文学性は清志郎の詞にはない。
授業をサボってラジオを聞いていても、清志郎の詞に背徳性や罪悪感はまったく感じられない。『口がでっかくなっちまっ』て『目が小さくなっちまった』としても、そこに自虐意識が込められているわけでもない。この少年はひたすらに『君の知らないメロディー/聞いたことのないヒット曲』を夢想している。彼はラジオから流れるヒット・ナンバーを聞きながら、いつか自分が生み出すであろう、青空に抜けていくような爽快なメロディを夢想している。彼はもう学校にはいない。すでに音楽のために生きている。純粋な音楽の虜である。
『トランジスタラジオ』がシングルカットされたのは1980年で、この曲を初めて聞いたとき、僕はこれは自分より一つ上の世代の歌だと感じた。ものすごく単純化して言えば、いち早くヒット曲を知るのに、ラジオにかじりついてFENを聞いていなければならない世代があったのである。50年代から60年代の少年・少女たちはそうしていた。しかし70年代にはもはやラジオは情報ツールの一つに過ぎなかった。たくさんの音楽雑誌を眺めながら、中高生でも自分のステレオを持ってお小遣いでレコードを買えるようになっていた(今の情報化社会とは比べものにならない貧弱さだが)。
カーペンターズに『イエスタデイ・ワンス・モア』という曲がある。出だしの歌詞は〝When I was young / I’d listen to the radio / Waitin’ for my favorite songs〟(子供の頃/ラジオを聞きながら/大好きな曲が流れてくるのを待っていたわ)である。『イエスタデイ・ワンス・モア』は1973年のヒット曲だが、清志郎とカレン・カーペンターは1951年と50年生まれでほぼ同い年である。彼らは確かに同じ時代を生きていた。
1950年代末から60年代を肉体感覚として知る人間と、それ以降の人間では、確実に感受性が違うと思う。イーグルスに『ホテル・カリフォルニア』という曲があり、歌詞に〝So I called up the Captain / “Please bring me my wine” / He said, “We haven’t had that spirit here / Since nineteen sixty-nine〟(僕はウェイター長を呼んで/『ワインを持ってきてください』と頼んだ/彼は言った、『そのスピリッツはここにはございません/1969年からずっと』)という一節がある。この〝spirit〟は『酒』と『ロックの魂』のダブル・ミーニングだという解釈がある。それは恐らく正しいのだろう。ある意味でロックの黄金時代は、1969年のウッドストックと70年のワイト島ロックフェスティバルで一つの区切りを迎えたと思う。
ジャニス・ジョップリンやジミ・ヘンドリックスのステージには狂気が感じ取れた。ワイト島でマリファナを吸いながら、〝I want to hear, the scream of butterfly〟(俺は蝶の叫び声が聞きたい)と目をつむりながら歌うドアーズのジム・モリソンも、とても正気とは思えない雰囲気を漂わせていた。ポール・マッカートニーが『少年の頃の夢は、クラブ歌手になることだったんだ』と言っていたが、60年代のロック市場は未成熟で、ありとあらゆる試みが為される混沌の中にあった。しかし70年代に入るとロックは急速に商業化していく。ロッカーのパフォーマンスが狂気を感じさせるとしても、それは周到に計算されたショービジネスの一つになっていったのである。
1970年代に十代の多感な時期を迎えた僕らには、ほんの少し前にあった60年代は手が届かない黄金時代としてあった。美化しているわけではない。70年代以降の方が、ミュージシャンには過ごしやすい時代だったのは間違いないと思う。しかし60年代にはロックの原点があった。60年代のミュージシャンは確かなテクニックを備えていたが、彼らにはそれを上回る、実に美しい〝愚かさ〟のようなものがあったのである。
ロックは若者の音楽だった。ロックをやりたいと思う若者は、多かれ少なかれ社会に反発を覚え、それをストレートに表現したいと願う者ばかりだった。ばかでかい音を出して、ステージ上で暴れたかったのである。ロックが一時期、カウンターカルチャーと結びついたのはそのためである。ただそれだけではミュージシャンとして一生を過ごすことはできない。どこかで自分と折り合いをつけ、社会と協調していかなければならない。しかし60年代のロックミュージックは、どうしてもそうすることができなかった〝殉死者〟を出していた。
だから70年代は、ある意味で神話時代が終わった日常の世界だった。僕はミュージシャンを目指したことはないが、その苦しさと時代精神を共有する同世代のミュージシャンたちを愛した。ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトやU2のボノらはほぼ同世代である。僕は彼らがやろうとしていることが手に取るようにわかるような気がする。ロックの原点とも言うべきストレートな心の叫びと社会へのプロテストを70年代以降の社会で表現しようとすれば、U2のような社会派になることがあるだろう。ザ・クロマニヨンズに至る甲本の軌跡を、パンクの一言で片付けることができるファンがいるとは思えない。ザ・ブルーハーツは『憂鬱な心』とでも訳すべきだろうと思う。愉楽が消えた世界で快楽を掻き立てるために、最も単純な音の象徴であるパンクが必要になったのだと思う。
二人の恋は 終わったんだね
許してさえくれない おまえ
さよならと 顔も見ないで
去って行った 女の心
サン・トワ・マミー
夢のような
あの頃を 想い出せば
サン・トワ・マミー
悲しくて
目の前が暗くなる
サン・トワ・マミー
(RCサクセション版 『サン・トワ・マミー』 岩谷時子の作詞の清志郎による替え歌)
『サン・トワ・マミー』は1988年発売のRCサクセションのアルバム『COVERS』に収録された。それまでは越路吹雪が歌った岩谷時子の詞が有名だった。それを清志郎は、男の側の歌に変えてレコーディングしている。著作権にうるさい音楽業界でどのようなクレジットが為されているのか知らないが、清志郎版『サン・トワ・マミー』は岩谷の詞に寄り添いながら、それを別のものにしてしまっている。
例えば岩谷版では『街に出れば 男が誘い/ただ意味なく つきまとうけど/この私が ゆきつく処は/あなたの胸の 他にないのよ』だが、清志郎版では『旅に出れば 女が誘い/ただ意味なく ぶち込むけれど/この僕の いきつくとこは/おまえの胸の 他にないのさ』という具合である。真面目に作詞したというよりも、越路の『サン・トワ・マミー』が好きで歌っているうちに、なんとなく清志郎的な替え歌になってしまったという雰囲気である。クレジットなどどうでもいいのだと思う。清志郎は恐らくアダモも越路吹雪も岩谷時子も含めて『サン・トワ・マミー』という曲が好きだっただけなのだろう。
同じ60年代といっても、ドラッグ・カルチャー時代でもあったアメリカやイギリスに比べ、日本のロックが数段おとなしいものだったのは間違いない。しかし60年代を肉体感覚として知る日本のミュージシャンたちは、あの時代の原点とも言うべき向日性を、確実に自分のものにしている。どこから見てもロッカーなのだが、50年代生まれの清志郎や桑田佳祐は自由だ。ロックの名曲はもちろん、歌謡曲に至るまで好きな曲を自由に歌う。B’zがモンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』を日本語の歌詞で歌うのはちょっと考えられない。彼らは僕と同じ、息苦しい60年代生まれのミュージシャンたちだ。
物書きなら誰もが一度くらいは経験する大きな失意の時に、僕は清志郎の『サン・トワ・マミー』を口ずさみながら多摩川左岸を日没まで歩き続けたことがある。アップテンポの曲でも、名曲と言われる曲は、ゆっくり歌うとどこかもの悲しい。しかし清志郎の『サン・トワ・マミー』には救いのない悲しさはないのである。それは前のめりでつんのめるような悲しみの歌だ。『悲しくて/目の前が暗くなる』と口ずさみながら、僕はすでに笑いだしていたと思う。目の前が暗くなるような悲しみの時には、そう口に出して前を向くほかないのである。
外賀伊織
http://youtu.be/smKeWmxSPVA
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