先日、七十一歳になったポール・マッカートニーが来日して公演を行ったが、子供の頃、人並みにビートルズをよく聴いていた。ビートルズはとっくに解散していたが、まだまだその強い余韻が残っていた。音楽雑誌を開くと必ずと言っていいほどメンバーの詳細な動向が紹介された記事があり、再結成を望むコラムなどが定期的に掲載されていた。1970年代のことである。
僕が最初に買ったのは、ビートルズ入門では定番の赤盤、青盤と呼ばれるベストアルバムだった。ビートルズの活動を前期と後期に分け代表曲を収録したアルバムだ。最初にジャケットを見たとき不思議な感動を覚えた。赤盤にはデビュー当時の、嬉しくてたまらないといった表情のメンバーの写真が印刷されている。青盤は解散間際の、うつろな笑みを浮かべた疲れ切った四人の写真である。当時の僕には四十代くらいのオジサンに見えたが、実際にはメンバーは三十歳になったばかりだった。ただその変化は僕が肉体的に感受したことのない60年代の激変を伝えていた。またバンドが変わり続ける生き物であることを示唆していた。
その後ビートルズのアルバムを何枚も買ったが、親戚の子が持ち出してそのままになったりして、全部なくなってしまった。あまり惜しくはなかった。僕が持っていたのはアナログ版で、気がつくと音楽市場はCDの時代になっていた。聴きたくてもアナログ再生用のプレイヤーが消えてしまったのである。また僕は、ビートルズも含めて音楽をあまり聴かないようになっていた。生涯に渡って音楽を愛する人もいるが、僕は青春期で音楽の魔力から抜け出してしまうタイプの人間だった。だから僕の音楽の知識は80年代くらいで止まっている。
ビートルズをまた聴いてみようと思ったのは、社会人になってだいぶたった頃である。僕は三十代になっていたが、子供の頃と同じように、まずCD版の赤盤、青盤を買ってみることにした。音源はデジタル化されたとはいえ、中身は昔と同じである。しかしCDに同封された歌詞カードを兼ねたブックレットの内容が大きく違っていた。僕がビートルズを聴かなくなってから十数年の間に、ビートルズはほとんどビートルズ学と呼べるほど詳細に研究されていたのである。
よく知られているように、ビートルズの曲の大半はジョン・レノンとポール・マッカートニーのクレジットである。ビートルズを聴いていた子供の頃は、額面どおりレノン-マッカートニーの共作だと思っていた。曲のクレジットは作詞・作曲という順だから、レノンが作詞でマッカートニーが作曲かもしれないと漠然と考えていた。しかし新しいブックレットでは曲ごとの作詞・作曲者が詳細に記載されていた。レノン-マッカートニーの共作もあるが、完全に別々に作った曲でも、二人はレノン-マッカートニーのクレジットで発表していたのである。
Try to see it my way,
Do I have to keep on talking till I can’t go on?
While you see it your way,
Run the risk of knowing that our love may soon be gone.
We can work it out,
We can work it out.
僕のように考えてくれないかな、
それとももうやっけてないってところまで話し続けなきゃいけないの?
君のやり方で考えていると、
僕らの愛はもうダメってところまでいっちゃうよ。
僕らはうまくやっていける。
僕らはうまくやっていける。
Life is very short, and there’s no time
For fussing and fighting, my friend.
I have always thought that it’s a crime,
So I will ask you once again.
人生は短く、くだらないことにかまけたり
争ったりする時間はない、そうだろ。
僕はずっとそんなの馬鹿げてるって考えてきた、
だからもう一回君に問いかけてみる。
(”WE CAN WORK IT OUT” written by Lennon & McCartney 1965年)
”WE CAN WORK IT OUT”は1965年発売の、ビートルズのオリジナル・シングル曲である。最初のセンテンスの作詞・作曲はマッカートニーが担当し、次のサビの部分のセンテンスはレノンが書いたようだ。聴いたことのある方も多いと思うが、マッカートニーとレノンのパートで曲調がガラリと変わる。マッカートニーの曲は明るく歌詞も向日的だが、レノンの曲は暗く、歌詞もペスミスティックである。
この曲調の変化を僕は数あるビートルズ・マジックの一つとして楽しんでいたわけだが、その内実はレノンとマッカートニーという二人の優れたソングライターが、別々に作ったパートを組み合わせたものだった。特にビートルズの初期の頃は、顔を突き合わせて曲を書くことが多かったようだ。初期ビートルズの名曲に”Michele”(ミッシェル)があるが、サビの部分で詰まったマッカートニーがレノンに意見を求めたところ、『I love you, I love you, I love youしかないだろうが』とアドバイスされたという話しも聞いたことがある。
この他にも今ではビートルズ神話の種明かしネタは山ほどある。ただいくら種明かしが進んでも、僕がビートルズを聴いていた頃のイメージは本質的にはあまり変わらない。レノンとマッカートニーは自分で作った曲を自分で歌っていたのだが、僕はそれを、ビートルズという有機体の中での変化として捉えていた。
通しでビートルズを聴いたことのある方はおわかりだろうが、あのバンドは初期はレノン・バンドで、後期になるにつれてマッカートニーの存在感が増してゆく。後期ビートルズのシングルA面、つまりヒット曲のほとんどがマッカートニーの曲(ヴォーカル)である。レノンには耐え難いことだったかもしれないが、リスナーがそんなことを気にするはずもない。僕は明るく軽快なマッカートニーの歌と、暗く難解なレノンの曲が交互に現れるビートルズの世界を愛していた。
ただ僕がリアルタイムで経験した、ビートルズ解散後のレノンとマッカートニーの活動はちょっと異様だった。ビートルズの陽であるマッカートニーがポップで明るい曲を作り、陰であるレノンがマッカートニーほどの大ヒットは飛ばせないまでも、チクリと心に刺さるような曲を作り続けていたことに異和感はなかった。不思議だったのは彼らの音楽パートナーの選び方である。
レノンは妻のオノ・ヨーコとタッグを組み、プラスチック・オノ・バンドとして活動していた。マッカートニーはウイングスという新バンドを結成したが、その中に妻のリンダがいた。ジョン&ヨーコと同様に、ポール&リンダのクレジットでアルバムも出している。ただヨーコもリンダも音楽家ではない。なぜ二人とも自分の妻を音楽パートナーにしたのか、ソロになってまで、なぜビートルズ時代と同じように二人一組のタッグを組まなければならないのかが不可解だったのである。レノンとマッカートニーにとって、ヨーコとリンダがかつてのパートナーほど音楽的才能を持っていないことは、誰の目にも明らかだった。
父が失踪し、母に見捨てられて叔母に育てられたレノンが、母性的なものを激しく求める孤独な少年の心を持っていたことはよく知られている。ヨーコの存在がビートルズ解散の原因になったのではという説は根強いが(マッカートニーは否定している)、包容力と強さを兼ね備えたヨーコは、レノンにとってこのうえない良妻だっただろう。またマッカートニーも多感な14歳の時に母親を亡くしている。レノンほどではないが大きな痛手だったはずである。彼の繊細な楽曲は、思春期の少年の心の揺らぎを感じさせるものがある。しかしそのような母性的なものを求める指向から、彼らが妻を音楽パートナーにしたとは思えない。
レノンはビートルズ解散の原因について、『魔法が解けたんだ』という意味のことを言っていた。ビートルズの魔法とは、究極を言えばレノンとマッカートニーの出会い以外にない。高い音楽的才能を秘めた、しかし資質の違う二人が十代の頃に偶然出会い、恐らく一人だけでは成し遂げられなかった創造の化学反応が起きたのである。ただレノン-マッカートニーほどドラマチックで成功したものではないにせよ、そのようは出会いは私たちの身の回りにたくさんある。
私たちはいつか社会に向けて船出しなければならない。社会は恐ろしいところである。自分にとっては当たり前の感性や思考が相対化され、時に手厳しく否定される。つまり社会とは自己には決して完全に理解できない不可知である。そしてほとんどの場合、〝私〟はまず最初に人間の形をした社会に出会う。初対面同志が探り合うような視線を交わし、ポツリポツリと話し始め、やがてお互い理解し合うようになり、理解の果てに自分には絶対に理解不可能な他者に再び出会うのである。社会が自己にとっての絶対不可知だとすれば、社会は原理的にはたった一人の人間他者であると定義することもできる。
感受性の豊かな時期に優れた他者に出会えた人は幸運だ。他者によって未知の社会を知り、時には共闘してさらに広い世界に打って出ることもできる。音楽界だけではない。そのような出会いは実業の世界でも、文学の世界でもたくさんある。創作者の場合、生涯に渡って強い友愛の関係で結ばれることは少ないが、若い頃に出会った優れた他者との交流と衝突はその後の創作活動に強い影響を与える。レノン-マッカートニーのように創作者であり、大企業に匹敵するビジネスパートナーであった場合、その衝撃が長く尾を引いたとしても不思議ではない。レノン-マッカートニーの、ビートルズ解散後の二人であることのオブセッションは、彼らの結び付きがいかに強いものであったかを逆接的に示しているように思う。
ただマッカートニーはその後、様々なアーチストと作品を共作するようになるが、特定の音楽パートナーは持たなくなった。しかしレノンのパートナーは一貫してヨーコだった。マッカートニーよりもレノンの方が、内向しがちな自我意識を世界に向けて開いてくれる媒介=他者を強く求めていた人だったからではなかろうか。レノンは1980年に最後のアルバム『ダブル・ファンタージ』を発表した。ヨーコとの共作アルバムである。このタイトルは示唆的だ。二人であることの愉楽とも、二人であることの幻想とも読むことができる。ヨーコの音楽を批判するつもりはまったくないが、レノンとマッカートニーが、ビートルズ時代を越える音楽パートナーを持ち得なかったのは確かである。
レノンは衆知のように、『ダブル・ファンタージ』発表直後に射殺されて死去した。ヨーコはレノンの思い出と彼の平和への意志を語り続けている。その姿はまるで母親のようだ。マッカートニーはレノンの未発表音源『フリー・アズ・ア・バード』を、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターのビートルズメンバーと録音してレノンを追悼した。しかしビートルズは再結成しなかった。彼は一人でビートルズ・ナンバーを歌っている。
レノンは『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ』という曲で、子供が仲違いした友だちを攻撃するように、『君が誇れる仕事は「イエスタディ」だけだ』とマッカートニーを罵倒した。レコーディングにジョージ・ハリスンを引っ張り込んだりもしている。2対1というわけだ。この曲の歌詞でレノンは”mother’s eyes”を、『女々しい目』と『母親のように優しい目』というダブル・ミーニング使っている。マッカートニーの優しい大きな目を想起していたのだろう。しかし僕は東京ドームでビートルズ・ナンバーを歌いまくるマッカートニーを見つめながら、むしろ父親的な愛と威厳を感じていた。
外賀伊織
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■