太陽の罠
NHK総合
土曜 21:00~
音楽ユニット AAA 西島隆弘の主演、NHK の社会派サスペンスドラマだ。あの書店員ミチルの話以来、NHK サスペンスに特有の空気感、ざらついたノスタルジックな画面が確立したように見える。
西島演じる長谷川眞二は電機会社の知的財産部に所属するが、太陽光パネルの技術を盗み出した疑いがかかる。同時に、社内で起きた殺人未遂事件の犯人と目され、妻も姿を消す。
この気の毒な男が存在感のない感じで(西島本人の談話)で演じられ、いかにも技術系の会社の社員というリアリティがある。主人公に存在感がないというのは、通常は致命的なのだが、この場合にはたいへん生きている。
このようなサスペンスの中でも、大きな社会問題をテーマとしているというよりは、会社内の人間関係が形成するものとしての「社会派」サスペンスでは、確かに主人公の存在感というものはない方がいい。この場合の本当の主人公とは、会社という組織における「関係性」だ。関係性がプロットを発生させるので、人間の「業」が引き起こす悲劇ではないからだ。
先頃の民放ドラマ「半沢直樹」などは主人公の存在感ゼロでは成り立たないが、あれは本来的にサスペンスではなくて、現代ものの歌舞伎のようなものだった。「倍返しだ」というのは「いよっ、待ってました」と声がかかりそうな、一種の見栄である。
人間の業が引き起こす悲劇を描いたのは、いうまでもなく松本清張だ。戦後日本の社会派サスペンスを牽引したと言ってもいい。清張ドラマでは、人は業を抱え、それゆえに事件が起きる。悲劇は事件ではなく、人間の業である。戦後日本には、宿命として業をかかえた人々がいた。それは社会の底辺に位置し、這い上がろうとする、這い上がらざるを得ない人間の姿だ。
現代の我々にはしかし、この「這い上がらざるを得ない」という感覚がわからなくなってきている。あの戦後社会、高度資本主義システムにおいては、その底辺に置かれたこと自体で欲望が発生し、そうでなければ他者の欲望の餌食となるより他はなかった。食うか食われるかのドラマは文字通りドラマチックであり、その悲劇性は破滅の美学を生んだ。
「太陽の罠」の主人公が知的財産部に所属しているというのは、高度情報化社会の今日を象徴してもいる。我々は平板な、這い上がろうとする欲望が薄まった社会に生きている。格差社会などとも言われるが、その格差とはせいぜい手取り収入の差でしかない。年収 200 万円以下はワーキングプアなどとプチ悲劇的に呼ばれるが、そういう二人が結婚でもすれば、途端に年収 3~400 万円の平均的家族になる。一人口は食えないが、二人口は食える、というやつだ。
我々はどこかで悲劇を求めている。現実に起これば、それは悲劇ではなく惨事に過ぎない。悲劇はギリシャの昔から、我々を覚醒させ、まだ生きていることを確認させる。しかし我々は我々の内に悲劇を見出すことなく、僥倖のように追い詰められ、巻き込まれ、八方塞がりになることを期待するしかないのだ。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■