ルイ・マクニースという詩人の特集だ。1907年、北アイルランドのベルファスト生まれのアングロ・アイリッシュだが、幼い頃からイギリスで教育を受けた。オックスフォード大学に進み、オーデン・グループの一人として、イギリス文学の流れの中で捉えられてきた。が、近年、アイルランド文学として読み返されているという。たぶん、そのように読み返した人たちというのは、その詩集を今回、翻訳した人たちと重なり合っていると思うが。
社会学の調査で、誰かが「みんなが」と言うとき、それが何人なのか、というのがある。「みんなが言っている」、「みんなが持っている」と、子供はよく家でおねだりするとき言うが、世の奥さんたちも井戸端会議なんかで言う。調査では、その「みんな」は自分以外の 2~3 人、多くて 4 人、ひどいときは自分に同意したあともう 1 人、だそうだ。
詩の世界、なかでも「現代詩」みたいな特殊な業界での「機運の高まり」と言われるもんが、顔見知りや関係者の 2~3 人であっても不思議じゃないし、それは別に責められることじゃないと思う。ようは、その 2~3 人が(いや、仮に 2~3 人であったとして、だよ。3~4 人でも、5~6 人でも、りょんさんの知ったことじゃない)、言ってることを重んじなくちゃならない、信用できる人たちかどうか、ってことだよね。ま、よその業界では 20~30 人か、そのまた10倍くらいいても、無視してしかるべき盛り上がりってのだって、よくあるから。
ほんでも、外国文学ってのはいいなと思うのは、翻訳っていうクッションが入るから、判断に関わってるのがインサイダーだけであれ、別に何とも思わないってのはある。まあ、きっとガクモン的には意味があるんだろうから、専門家に任せときますか。
だけど、そもそも、そんなよく知らない外国の詩人がさ、イギリス詩人なのか、アイルランド詩人なのかってことが、日本の誰にとって重要なのかって、かなりギモンだけど。まず具体的に、日本の詩人にどういう影響を与え得るのかをハッキリしてもらえたら、まだ興味も持てる。だって現代詩手帖って、いちおう一般誌で、学術誌じゃなくね?
我々イッパンジンが文脈として「読める」のは辛うじて、その訳詩集とかが思潮社から出てるってことで。そんなら雑誌で特集するのは、別にフツーだけど。ほじゃ、なんでその本出したのかって、堂々めぐりだし。
もいっこの特集は、広部英一という福井の詩人の特集で、さっきの外国の詩人との共通点は、両方とも北の人だということ。北へ行くのね、ここも北なのに、ってわけだろうか。べつに日本の北でも間に合う、と。
この詩人もだけど、なんで特集になってるのかは、よくわからなくて、思潮社で全詩集が出たってことぐらい。ここでもまた、なんで出したのかってギモンに対しては、特集の対談の冒頭に「もちろん、ご遺族のご要望もあったけど」って。。。これ、テープ起こししたの、誰だよ? 特集を読まされる方にしても、あんまりではないか。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■